備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

真の失業率──2016年10月までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

10⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉と同水準となったが、真の失業率は2.8%と前年同⽉から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き減少基調である。真の失業率は、現推計時点において基準年*1である1992年より改善していることとなる。また、インフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する9⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は引き続き停滞しており、物価は低下傾向である。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

真の失業率──2016年9⽉までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

9⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も2.9%と前年同⽉から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き減少基調である。真の失業率は前月に引き続き完全失業率よりも低い水準となり、現推計時点において、雇用情勢は基準年*1である1992年よりも改善していることとなる。また、引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する8⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降減少に転じていたが、5月を底に再び上昇し、その後は停滞している。一方、物価は引き続き低下傾向である。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

清水真人『財務省と政治 「最強官庁」の虚像と実像』

類書としては、未読だが話題の書となった『官邸主導』や、『経済財政戦記』*1、『消費税 政と官との「10年戦争」』等の著者による、大蔵・財務省を中心とした25年間にわたる政治史。内容的には、先にあげた『経済財政戦記』等とも重なる部分があり、自分にとっても同時代史であるが、本書のオリジナルな要素としては、無論のことながら歴史記述の中心に財務省を据え、特に財務省と政権・与党との関係が中心に記述されていることと、2014年の消費税増税以降の情報が追加されていることである。同著者による他書と同様、淡々とした記述の中にも一気に読ませる勢いがあり、細部に宿る重要性を捉える眼力や、それを記憶し、文脈の中につなげていく筆力には、いつも感心させられる。

財務・大蔵省と政権・与党とのパワーバランスが崩れたのは、まさに本書の始まりの時点である1990年代初頭、最初の政権交代が起きて以降ということができる。それまでの大蔵省が持っていた力の源泉について、著者は、(1) 予算査定を通じ霞ヶ関内に張り巡らされた情報網、(2)霞ヶ関内のヒトとカネを握る主要なポストや総理・官房長官等の秘書官ポストを押さえてきたこと、(3)金融の護送船団行政やメーンバンク制を通じ金融・産業界の情報も収集できたこと、(4)税の徴収を担う国税庁の存在、などをあげている。こうした情報の力、あるいはそれを活用する力によって、かつての大蔵省は国政のコントロールを一定程度行うことができたといえよう。

しかしこのような力の源泉は、政権交代を経て成立した橋本行革の中で、その多くを奪われることとなり、そこに生じる「権力の空白」では政治の混乱が起こることとなる。本書を読んでいて気付くのは、実は政権交代は直接的に財務省の力を削ぐことにはつながらず、実質的に財務省の力の源が削がれたり、あるいは財務省が蚊帳の外に置かれたりするのは、その直後の自民党政権においてであることだ。これは細川政権の時と同様、民主党政権時にも同じことが生じている。このことは、本書を通読することで明確になる*2

また橋本政権以降の自民党政権では、自民党内のガバナンスにおいて、「竹下派」ないし派閥中心の支配から、いわゆる「YKK」等派閥横断的な組織化の動きが明確になる。そうした中で、先日亡くなった加藤紘一という政治家が果たした役割や、政治史におけるその位置付けについても、本書の通読からおぼろげながら見えてくる。こうした加藤紘一らと財務省、あるいはその背後にある派閥支配的なものとの対立軸は、現政権においてもまた違った形で息づいているように思える。

多くの力の源泉が奪われ、また自民党内のガバナンスの変化が生じる中でも、いまだ財務省という組織の力は健在である。最後に書かれている「人材の枯渇」のリスクは大きいが、そうはいってもこの先十数年内の国政への影響力は十分に大きいものがあるといえよう。現代においてそれを可能としているのは、やはり相も変わらず「情報の力、あるいはそれを活用する力」である。加えていえば、毎年の通常国会で予算案を通すことには、時の政権にとって多大なエネルギーを要する。予算委員会における審議は国民の目にさらされる機会が多く、他委員会と比較してその厳しさは比較にならない。審議を円滑に進める上で、与党の国会対策とタイアップした財務省の力はどうしても頼らざるをえないものである。こうした時の政権に対する予算委員会の「圧力」は、引き続き、財務省にとって大きな力の源泉であるといえよう。

なお、本書を通じ財務省というのはいかにも一体感のある組織のようにみえ、まるで一つの顔しか持たない組織のように思える。欲をいえば、財務省内部でのあり得べき確執等についても描いて欲しかった。一方で、財務省と日銀の関係は比較的よく描かれている。その関係は思っていた以上に密接であり、GPIFの資産構成見直し時における日銀とのすり合わせの話など、「なるほどな」と思わせるものもあった。

*1:これについては下記を参照:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20080220/1203516597

*2:それと併せ、細川護煕小沢一郎鳩山由紀夫菅直人といった政権交代を演出した政治家の「本質」もよくわかる。また、金融国会時の政策新人類の活躍については、世の中的に過大評価されているという印象を持った。人間の「本質」とはそうそう変わるものではなく、その印象は現在まで続く。

真の失業率──2016年8⽉までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

8⽉の完全失業率(季節調整値)は3.1%と前年同⽉から0.1ポイント上昇したが、真の失業率は3.0%と前年同⽉から0.2ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。真の失業率は完全失業率よりも低い水準となり、現推計時点において、雇用情勢は基準年*1である1992年よりも改善していることとなる*2。また、引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する7⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降減少に転じていたが、5月を底に再び上昇傾向となった。一方、物価は引き続き低下傾向である。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

*2:ただし、雇用者数が正規・非正規ともに増加している中で、このところ、非正規の増加幅がやや高くなっている。

濱口桂一郎『働く女子の運命』

若年、中高年、女性という区分けは、日本の労働政策の中では比較的馴染みのあるもので、それぞれに応じた雇用・労働対策が講じられる。このうち近年の女性に関するものをみると、その主要な一部をなすパート労働対策が非正規雇用問題としてどちらかといえば若年の枠で捉えられがちとなり、一方、男女雇用機会均等の精神はすでに社会化されつつあるようにもみえる。そうした中、世界的にみて大きい社会進出における男女格差など、法制度面を超え社会の実相面からその活躍を促進することが課題となってきた*1

著者はこれまでの新書で、若年、中高年の雇用・労働問題を日本の雇用システムの枠組みから論じ、「ジョブ型社会」という解決の方向性を提唱してきた。雇用や生活の安定に資するはずの長期雇用慣行や年功賃金制が、失業した中高年労働者にとっては再就職のハードルとなったように、総合職として将来指導的地位を目指す女性労働者が活躍の場を得る上でのハードルとなる。これは、いわゆる統計的差別(アロー、フェルプス)によって説明される問題であるが、小池和男『仕事の経済学』に記述される統計的差別の日本的な解釈は、男女間の差別的な扱いが「日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになる」原因となったとする。

このように前著『日本の雇用と中高年』に引き続き本書でも「知的熟練論」批判が展開されるが、本書の批判はより(本質的というよりはむしろ)「本格的」である。ここでは、本の主題である女性労働政策からは外れることになるが、まずは、この部分について整理してみたい。

「知的熟練論」批判の概要

日本の年功賃金制の源流を、著者は戦時期の国家総動員体制における「皇国勤労観」にみるが、そこには明確な生活給思想が現れている。戦後は1964年のいわゆる「電産型賃金体系」が時代の典型性を形作る賃金制度となっており、こうした生活給思想を理論づけるものとして、著者は(「私自身全然納得しないのですが」と留保しつつ)マルクス経済学の「同一労働力、同一賃金」の考え方を引用する(1949年の宮川實『資本論研究ニ』)。

こうした生活給思想を源流にもつ年功賃金制は批判を受けつつも根強く生き残り、「能力主義」に基づく職能資格制度として1990年代まで一貫して賃金制度の主流の位置を占めてきたといえる。そしてそれを理論づけ、説得力を与えたのが「知的熟練論」である。ただし著者によれば、「知的熟練論」は当初から年功賃金制の世界的優秀性を理論づけるものとして存在していたわけではなく、当初は、「産業資本主義から独占資本主義へ」という宇野派マルクス経済学の「段階論」に立脚していたことを指摘する。

小池氏はこれを労働問題に応用し、産業資本主義段階に対応するのが手工的万能的熟練であり、職種別賃金率であり、クラフトユニオン(職種別組合)であるのに対して、独占資本主義段階に対応するのが「複雑化した青写真を読み、精巧化した機械の構造に通じる『知的熟練』」であり、内部昇進制と先任権制度(シニョリティ・システム)であるというのです。そして、これをもって当時通説であった日本特殊性論を否定する論拠とします。

ただし著者は、欧米の先任権制度は日本の年功制や長期雇用とは全く異なる仕組みであり、「その実証的根拠はきわめて希薄」であるとする。

さらに小池氏は年功的な賃金の上がり方の実質的理由を「能力」に求めるが、大企業と中小企業の賃金カーブを比較しつつ述べるその根拠は乏しく憶測に過ぎないもので、「存在するものは合理的というヘーゲル的な論理」のみであると指摘する*2

日本的雇用慣行の行く先

上記の批判はきわめて興味深く、ここまで執拗に批判を加える意図を考えずにはいられなくさせるものでもある。いうまでもなくその背後には日本的雇用慣行を礼賛することにより、結果的に、正社員の無限定的な働き方をも正当化してしまったこと、またその仕組みによって「疎外」されることを余儀なくされる総合職女性や「悶える職場」(吉田典史)で苦しむ正社員の姿があるのだろう。

とはいえ日本的雇用慣行は「知的熟練論」とイコールではない。「本質的ではなく「本格的」」と先ほど記述したが、「知的熟練論」の出自や根拠がどうあれ、理論的にコンシステントであるという事実が失われるわけではなく、そうであるからこそこれまで人事労務の実務家等の中でも一定の評価を得てきたのではないだろうか。また以前のエントリーでも指摘したように、条件を緩めて考えれば「暗黙の契約」として年功賃金制の合理性を説明することは可能であるし、一国経済を形作る様々な制度の中での「制度的補完性」によって日本的雇用慣行の生命力は強化されてきた、とも指摘し得る。そうした中、本書における「知的熟練論」の取り上げ方は、ややスケープゴートのきらいを感じさせる。「罪」を着せるべきは、むしろそれを無批判的に利用した政策側の人間の方なのではないだろうか。

しかし何れにしても、日本的雇用慣行を礼賛し正当化し続けることは時代にそぐわない。一度成立した制度は容易には変えられず、「疎外」される人達の苦しみも一足飛びに取り除けるものではないが、例えば、まずは「休息時間」を強行法規的に設けることで日本の正社員の無限定的な働き方に歯止めをかける、というのは最初の一歩となり得るだろう。とはいえ日本的雇用慣行は経路依存的にしか変えられず、結果的に、その行き着く先が日本の産業構造や経済成長にマイナスとなる可能性もある。「労働力の再生産」*3を維持するため、年功賃金制に変わる新たな社会保障制度も必要となる。しかしながら、有名な林=プレスコットの論文では、労働時間短縮を1990年代の日本の経済停滞の一因としたが、週40時間労働をはじめとするかつての労働時間法制の改正について、今に至って多くの人が批判的だとも思えない。身も蓋もないまとめ方になってしまうが、これは社会厚生や幸福度といった視点からも考えるべき問題なのかもしれない。

(追記)

著者のブログで取り上げていただきました*4。リプライいただいたことに感謝します。

まず一点、本書(女子の運命)に関わっては、上記の問題意識ですが、先月取り上げていただいた中高年の本での問題意識はむしろ、本来生活給として作られ維持されてきたものを「能力」で説明してしまったために、かえってその本来の「生活」の側面での問題を正面から理論的に提起することができなくなってしまったことの問題点を、私は結構重視しています。どちらが本質的でどちらが本格的というわけではありません。

子ども手当をめぐる議論の迷走も、最近の奨学金債務で破産する云々の話も、「生活給」が面倒見るはずだったものを面倒見られなくなってきているにもかかわらず、それが「生活給」だという議論が(本音では強力に生き残っていながら)建前上は「能力」だということになってしまっていることが最大の背景だと思っています。この点は、前著の最後で述べたとおりです。

小池批判はスケープゴートではないかというのは、いやいやそれは1970年代後半から1990年代前半までの私の言う「企業主義の時代」の労働経済学を全部ひっくるめて小池理論で代表させてしまうというのは最大の賞賛だと思いますよ。他の学者の議論はわざわざ取り上げるに値しないと言っているに等しいのですから。

年功賃金制(あるいは賃金の下方硬直性)を説明し得る他の理論としては、「知的熟練論」のほかにもアザリアデスの「暗黙の契約理論」や、より有名なものとしてはラジアーの「効率賃金仮説」が当時からあったわけであるが、やはり一定の実証性を備えた「知的熟練論」の影響力が大きかったということだろうか。なお、「暗黙の契約理論」「効率賃金仮説」はともに、『仕事の経済学』の中で、日本的雇用慣行を説明する上では不完全なものとされている。

*1:女性の社会進出を促進したいという近年の方向性は、労働政策の範疇というよりむしろ経済規模の拡大という視点から出てきたようにみえる。実際、家事労働によるサービスの産出はSNA上は産出額の対象とならないが、女性の社会進出により結果的に家事サービスの市場化が進めば、その分GDPは増加する。いうまでもなく、それによって社会厚生が高まるわけではない。

*2:実際、大企業と中小企業の賃金水準の違いは、その一部は労働者属性の違いに帰すことができるにしても、資本装備率の違いからくる労働生産性格差がより大きく寄与しているであろう。

*3:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20160813/1471052174 参照。

*4:http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-9f00.html

真の失業率──2016年7月までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

7⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も3.2%と前年同月から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する6⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4月以降減少に転じていたが、今月は反転している*1

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:今回のグラフから2014年4月の消費増税をダミー変数で回帰処理したため、グラフの形状が以前のものと足許で異なっている

青木昌彦『青木昌彦の経済学入門 制度論の地平を拡げる』

本書の概要(主に前半部分)

昨年7月に没した経済学者、青木昌彦の比較制度分析については、奥野正寛との共編著『経済システムの比較制度分析』など専門書ではあるが比較的読みやすい本が既にあり、小池和男『仕事の経済学』の知的熟練論もまた比較制度分析の枠組みの中で捉える見方があるなど、広く世に知られ、かつ様々な分野に応用されている。この本も比較制度分析を主たる対象としつつ、一部において青木昌彦という経済学者自身にも迫る内容となっている。前半は比較制度分析の学び方、考え方に関する対談、講演等からなり、後半はその応用として、中国経済の歴史分析などが取り上げられる。

本稿ではまず前半の、特に第2章の制度分析入門を中心にその概要をみることとしたい。比較制度分析の「前史」として新制度学派をみるとき、ダグラス・ノースのほか取引費用理論のロナルド・コース、オリバー・ウィリアムソン*1といった名前が浮かぶ。本書ではその代表的な経済学者としてノースを上げ、著者の考え方との違いを述べる中で、ノースは制度は法とインフォーマルな慣習からなると考えるが、法は政治という市場経済の外から外生的に与えられるとする一方、慣習の成立は説明しないままになっていると指摘している。これに対し比較制度分析では、人間は「相手は自分の行動に対してどういう反応を示すだろうか」ということを予想しながら行動するわけであるから、人間社会はすべて(内生的にそのルールが生じる)ゲームとして類推できるとし、そうした見方の起源としてアダム・スミスの『道徳感情論』を上げている。

このように比較制度分析では、慣習のみならず法についても内生的なゲームのルールとして生じるとみるが、その事例として、日本のいわゆる「終身雇用制」が取り上げられる。

日本の終身雇用制も、もともとは法律で定められたものではありませんでした。現在、経営者が労働者のクビを恣意的に切れば、裁判所は不当な解雇であるという判断を下すでしょう。しかし、そういう法律があらかじめ存在していたわけでありません。むしろそういうルールが自ずと発展し、雇用者は勝手にクビを切れないと労働者は予想し、それから雇う方も、労働者がいったん企業なり役所なりに就職したらおそらく一生そこで勤めあげようと望んでいるとの想定のもとに慎重に採用する、そういう状態が終身雇用制を制度たらしめたわけで、法はそれをいわば事後的に追認したという面があります。

国家形態は、政治や経済、組織など様々なドメインの均衡状態として考える。それぞれのドメインでは、例えば組織における階層型、シリコンバレー型など複数の均衡状態が成立し得るが、そうした中からどの均衡状態が選ばれるのかは、それぞれのドメインに成立する制度は相互補強関係にあるという「制度的補完性」の概念から説明される。ただし、「なぜ日本には日本型の均衡が生まれ、アメリカにはアメリカ型の均衡が生まれるのか」という問いにゲーム理論の内部から答えることはできない。

こうして成立した制度は、法や政策で簡単に変えられるものではない。著者は日本の制度について、その根幹に終身雇用制があり、その他の制度はそれによって補強される関係にあるとみているが、それを創り直すには一世代、30年はかかるとする。日本は現在、「移りゆく30年」の過程の中にある。シュンペーターイノベーションを「生産過程における資本や労働、あるいは中間生産物などの生産要素の結合(の仕方)を新結合すること」と定義しているが、そうした現象の一つとしてシリコンバレー現象を考えることができる。シリコンバレー現象を説明する「モジュール化」(クラーク=ボールドウィン)の進行は、従来の階層型組織とは異なる形で不確実性に対処し、企業家の競争を引き出すことを可能にする。日本においても、社会に埋め込まれた様々な関係がダイナミックに働き(グラノベッターによって概念化された「社会的埋め込み」)、古い結合の創造的破壊と新結合によって新しい制度が産まれる過程にあるというのが著者の見立てである。

「複線型」雇用システムの可能性

以上、おもに本書の前半部分を中心に整理してみた。本書では、アメリカにおいてIBMから技術者が流れシリコンバレーの発展を導いた現象をシュンペーターイノベーションとして好意的に取り上げ、不確実性が高まり「モジュール化」が進む技術的特性の中では、日本においてもイノベーションは避け難いものとみる。また、本書の後半(第3章)では、マクロ経済的な視点からも日本経済の移行過程が論じられる。

こうした見方は、確かにエレクトロニクス産業ではよく当てはまると考えられる。「モジュール化」により中間製品のコモディティー化が進むエレクトロニクス産業では、生産過程における取引費用が低下し、垂直的統合を行うことの利点が失われ、企業内あるいは企業間での分業が進む。しかしその一方で、自動車産業など「すり合わせ」の領域がまだ大きい産業分野もある。こうした場合、垂直的統合の優位性は失われておらず、長期雇用システムも優位性が保たれる。

こうした産業別の特性の違いが「移行過程」ゆえに生じているものなのかは判断することが難しい。日本の典型的な雇用システムは、これまで、その入口が新卒者の定期採用に限られ、それが下位の職務を形成し、上位の職務は昇進・配置転換により内部から補充される内部労働市場を特徴とするとされ、その中で、企業特殊熟練を計画的OJTにより形成してきたとされる。しかし「モジュール化」が進むことで生産過程における取引費用が低くなると、一般的な職業訓練や職種別の外部労働市場等の強みも増すことになるだろう。

このことは、長期雇用と失業なき労働移動双方の顔を持つ「複線型」雇用システムという考え方にもリアリティを与える。「モジュール化」が進めば、「複線型」雇用システムを可能にしない限り、多くの工程は長期雇用システムとの制度的補完性を確保することができなくなる。一方「すり合わせ」の領域は内部労働市場との制度的補完性が高く、垂直的統合による生産体制が維持される場合には、引き続き長期雇用は主流の位置を占める。果たしてこうした「複線型」システムはどのような形で可能になるのか、あるいはそれは均衡状態としては成立し難いものなのか、後者であれば今後、特定産業における日本の優位性にも影響を与えることになるだろう。

*1:ウィリアムソンの『市場と企業組織』については、本ブログでも4回にわたってエントリーを上げたことがある:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20120721/1342840690 など。