ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

永井均「私・今・そして神」(その1)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

第1章 開闢の神をめぐってたゆたう序章

第2章 ライプニッツ原理とカント原理

  • 私と内容が同じ人は私か、今と同じ内容のことが起こっている時は今か、という問題群には、開闢そのものと、それによって開かれた世界の内部で成り立つ条件の対立という問題がある。「何が見えていようと見ているのは常に私だ」という独我論に対して、その「私」って誰、との反問が可能であるが、その「私」は決して複数化されない。
  • そこには常に決定的な断絶があり、それが「存在論的差異」(これ性と何性)と呼ばれる断絶。この問題にはもう一つの方向があり、むしろ持続ということと関係。開闢そのものが、それによって開かれた世界の内部に位置づけられ、その内部を支配する条件の側から、その存在と持続の基準が与えられるというカントの根本洞察。
  • 何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ、というライプニッツ原理と、起こることの内容的つながりによって何が現実であるかが決まる、というカント原理の対立。
  • 純粋理性批判」の初版では、世界が私の内部に位置づけられるが、改訂版では、私の側が世界の内部に位置づけられる(私の存在は、持続する物との関係によってはじめて時間のうちに捉えられるのだから、この持続する物は、私の内部にある物ではあり得ない)。客観的世界とそれを成立させる心のはたらきとの表裏一体性の認識は、カント哲学の比類なき洞察。
  • カントには、統一的な客観世界が成立することと、唯一の現実世界が成立することの区別がない。一方、今については、何が起ころうとそれが起こるのは今であるが、その「今」とはいつかと問われた時、その「今」も客観的世界の中に位置づけられてしかあり得ないことがわかる。

第3章 私的言語の必然性と不可能性

  • 開闢の私を言語で捉え、言語で表すことが可能か、との問題は、ウィトゲンシュタインが「独我論は語りうるか」「私的言語は可能か」という形で提示したものであり、カント的問題にライプニッツ的問題を接続することができるかという問題をめぐる様々な苦悶のうちの一つ。
  • この問題に迫る方法は、①成立した客観的世界に存在している言語の側から、言語が持たねばならない条件を私的言語が満たしているかを問う方法と、②私のこの言語が実は私的言語であることはあり得ないことなのかを問う方法。①の方からみた場合、私的言語が誤りうるという事実ではなく、食い違いうるという事実。問題は、その時なされた「その」判断根拠と独立の根拠を、私が私の心の中(だけ)で持ちうるか。
  • 複数の私的言語が組み合わさっている場合、単にそう思うこととは独立の基準が生じうる。その場合「〜の後で」「〜の際に」といった私的言語間の関係を示す言語は、それ自体依然として私的。ここでは、他者の存在はまだ想定されていないが、にもかかわらず、メタレベルに立って相互に関係づけることが、ただそれだけで、客観性の源泉となる。
  • 誤るとか食い違うということが意味を持つためには、どんな場合でも、そういう判断が成り立つための、もはや誤りも食い違いもしない確実性(確信)が必要。ここから本当の私的言語の問題が始まる。問題はそれがどこにあるかであり、言語ゲームの規則がそれを与えてくれるのか、それとも逆に、そのことこそが言語ゲームの規則をはじめて可能とするのか。
  • 間違っていることがあり得るとしても、その間違いが私にわかるためには、もはや間違っていることが想定されない私の言語が必要だ。とはいえ、それもまた間違っていることがあり得、その間違いを認定する言語の側が間違っている可能性も考えられること。私的言語と言語ゲームの間に優先順位をつけることはついにできず、私の言語の中にある言語ゲームの中に私の言語がある、という構造は必然的。
  • 「この」言語(私が今理解する唯一の言語)の誤り得なさが、ライプニッツ原理とカント原理を現につなぐ。ライプニッツ原理だけなら、それはどんなに間違っていようとねんじゅう変化していようと構わないことになり、カント原理だけなら、間違っていない、変化しないその言語が、現に「この」私の「この」今の「この」言語である必然性がない。

フォロー・アップ用−Charisの美学日誌

コメント 正に哲学をするための本であり、「ゆっくりとしか読めない」との書評は的を得ている。読みつつ著者の思考の錯綜につき合う必要がある。「「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬものに、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、〈私〉とか〈今〉とか、いろいろな名付けがなされていく」という記述は印象的。第1章では、「私」と「今」の違いについて、「今」は客観的な時間点であるが「私」は客観的な空間点ではないことを指摘するが、「今」を「私の今」とみることでその違いは薄まる。これらは、世界の内部を支配する条件の側から存在と持続の基準が与えられるというカント原理と、何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だというライプニッツ原理の対立軸のうちに表現される*1。「マクタガートパラドックス」については現時点で十分な理解が及ばず、外にも読後において再度読み返したいと思える要素がある。また、ウィトゲンシュタインの哲学は、本書において通奏低音的な役割を果たしているように思えるのだが、その点は同じ著者による「ウィトゲンシュタイン入門」*2を読むことでより明確になるのだろうか。

*1:デカルトの位置付けについては、charisの美学日誌の(3)において明確にされている。

*2:

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)