備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

「「私」はパブリック・ドメインの住人」(内田樹の研究室)

「コピーライツという考え方はよろしくない」ということを時々発作的に申し上げているが、それはロラン・バルトジャック・ラカン以来の、「私が語っているとき、私の中で語っているのは〈他者〉である」という「現代思想の常識」テーゼを繰り返しているにすぎない。だいたい私のところに印税の支払いがくるテクストについていえば、その過半を私は書いた覚えがない。
(中略)「私のテクストは竈の灰まで私のものだ」というような考え方をする人間と私が意見が合わないのは、「私」という概念が私の場合はずいぶん可動域が広いということに起因するのである。

コメント 07/02付けエントリー及び05/27付けエントリーに関連して。この文章から、内田樹氏は、過去の自分は現在の自分との連続性をもっておらず、その意味で、過去の自分は「他者」なのだ(しかもそれは「現代思想の常識」テーゼ)、と主張しているものと理解した。フッサールに対する読みは、柄谷行人氏の場合と異なるか。でもその「常識」は、法律や商慣行の体系の中では、むしろ非常識なのではないかな*1
引用箇所からは逸れるが、「コピーライトは「権利」ではなく、むしろ時間差がうみだす「負債」の感覚をかき立てることによって文化の富裕化に寄与するのではあるまいか」という部分も、そう簡単にコメントできない深みのある観点であるが、とりあえず備忘録としてチェック。

*1:要約すると...A:「確か契約書では、今日引渡ということだったと思うのですが。」、B:「いや、その契約をした私と、現在の私は同一の者ではありません。」、A:「(゜Д゜)ハァ? ...そんなこと仰るなら、契約時にお渡しした金額を(利息を付けて)返還していただきたい。」、B:「あのお金は契約時の私が使ってしまわれたと思います。今の私にそれを返還することはできません。」、A:「 (゜Д゜)ポカーン...」