備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

永井均「ウィトゲンシュタイン入門」

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

序章 ウィトゲンシュタインの光と陰

  • 独我論をめぐっては、ウィトゲンシュタイン以前と以後とでは、問題の問題性そのものが一変。「私に見えるもの」や「私の意識」の外にあるものが存在すると言えるか、が最大の問題であったのが、独我論を語ることのできる「私」とは一体誰なのか、に問題の焦点が移る。
  • 超越論的主観とは、素材としての世界に意味を付与することにより、世界を意味的に構成する主観であるが、この「私」とは、超越論的主観とも違うもの。

第1章 生い立ち

第2章 像−前期ウィトゲンシュタイン哲学

  • 「論考」の主題は、言語の可能性の条件を明らかにすること。「上流で大雨が降れば、下流で洪水が起こる」のように、独立に捉えられる二つの出来事の間の偶然の関係を外的関係と呼ぶのに対し、「上流に雨が降った」は事態の表現としてしか理解されず、このような関係を内的関係と呼ぶ。内的関係は「論理形式」を共有することによって成り立つ。
  • 現に成立している事態が事実であり、世界は事実の全部。言葉が意味を持つためには、(少なくとも)事態の写像である「要素命題」へと分析できることが必要。事実を記述することを意図しない文(価値判断、挨拶や命令、意図の表明や約束等)は、「語り得ぬもの」として、「論考」が有意味と見なす言語群から閉め出される。
  • 命題が現実の像と成り得るため、命題が現実と共有するものが写像形式。写像形式そのものは、もはや写像されない。*1
  • 全ての命題は事態の写像である要素命題から構成され、真理関数の理論により、複合命題の真偽は要素命題の真偽により自動的に決まる。「∧」「∨」「⊃」等は論理定項と呼ばれ、これらはそもそも像ではない。
  • 世界の中で起こる出来事は全て偶然で、偶然でないものは世界を形作る論理形式と世界を超えた価値。しかし、その二つを繋ぐ世界の限界としての「私」は、実はもう一つの偶然。先験的なもの(論理形式)と超越論的なもの(価値)とは、この「私」の存在という奇跡によってかろうじて繋がれる。

第3章 復帰

第4章 文法−中期ウィトゲンシュタイン哲学

  • 中期においては、内的関係(語りえぬもの)が、論理形式から文法へと広がる。意味を知ることは検証方法を知ること。ただし、検証とは、命題が真であることを証拠立てるものではなく、命題の意味そのものを始めて定めるもの。
  • 検証条件の指定は文法規則の提示であり、命題を言語外の実在に結びつけることはできない。現象による検証は放棄され、「基準」という固有の概念に取って代わられる。
  • ラッセルにおいては、目的とその実現という内的関係が、欲求とその沈静化という外的関係と混同され、志向性が見逃される。志向と充実の関係も、文法への一元化がなされる。この関係において本質的なのは言語であり、人間が自己自身を志向的に捉えて生きる動物であるのは、人間が言語を持つ動物であるから。
  • 予期することは一つの行為であり、予期していると語ることはその一部。同時に、自己の行為を予期として語る可能性こそが、予期という行為を始めて成立さす。このとき、その語りは「反省による内面の記述」ではなく「予期そのものの発露」。言語ゲームの背後に超越的で外在的な何かを想定したがるのは、「煩悩」とでも呼ぶべきもので、ニヒリズムと名付けるべきもの。

第5章 言語ゲーム−後期ウィトゲンシュタイン哲学

  • 人は、自分が生きている当のものを語ることはできない。言語ゲームは、決して語られることのない、このような対象化されざる生活形式の中にのみ、基盤を持つ。言語ゲームはあるがままに受け入れる外無く、それには根拠が無く、それが全ての根拠。これまでのところ、偶然にも、ひどい不一致を経験していないだけのこと。
  • 「解釈ではないような規則把握」の水準で、規則に「私的に」従うとはどういうことか(想像できない)。それが語られた途端、規則に「私的に」従うことから、「私的な」規則に従うことに変質する。このため、その不可能性を主張したい私的言語に行き着くことができない。

第6章 最期

  • トートロジー」は言語を使う以上、既に前提されている真理であるから、改めてこれを「知っている」と主張するような文脈はあり得ない。「トートロジー」にあたるものは、中期では「文法規則」、後期では「言語ゲーム」の実践知へと拡張され、「確実性の問題」に至って、通常の経験的事実を語る命題のいくつかがその地位を占める。

第7章 語りえぬもの−光と陰、再び

  • 一般的な私ではない「この私」というのは、その人物を特定すれば十分というものではなく、その人物は誰、ということと、それが「この私」であることとは独立。だが、そのことは、再び、どの「私」にも当てはまること。そのことによって−つまり独我論が論として成り立つことによって−、独我論は語り得ないものとなる。

コメント 言語ゲームがその背後に根拠を持たないように、ある種の慣行(商慣行等)にも、「本来あるべき基準」と呼べるものは無く、あるがままに受け入れる外無い。*2これに挑戦しようとするある種の主体が、劇的に、現状の価値システムを転換させてしまうというケースも想定し得るが、そのようなケースも含めて「言語ゲーム」なのだろう。*3最後の論点は、「この私」の「この」性と「私という存在者」が異なることを捉えているように思えるが、(pp.135-138の部分も併せて)要検討であり、また、「私・今・そして神」での議論にも繋がる。

*1:集合論におけるラッセルのパラドックスに似ている。

*2:無論、当該慣行を変えないような意図を持つ、別段のサブ・システムも考えられるが。

*3:ただし、倫理や価値の問題は、「言語ゲーム」の中には位置を占めない。