ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

07/08付けエントリーに関連して、「希望格差社会」(内田樹の研究室)

「リスク社会」とは何か、山田さんはこう説明する。それは「リスクをとることを強制される社会」、「選択を強制される社会」のことである。「自分のことに対しては、自分が決定する。これが自己決定の原則である。そして、自分で選択したことの結果に対しては、自分で責任をとる、これが『自己責任』の原則である。リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められている。(中略)
そういう社会では、基礎的な能力が高く、かつプライヴェートな相互扶助組織(人脈、学閥、閨閥など)に支援されていて、かつ「戦略的に考えることのできる人間」はたくみにリスクヘッジすることができる。彼らはリスクヘッジをさらに確実化するために、「強者同士の相互扶助組織」を強化する方向に向かう。(中略)
しばらくは「親方日の丸」的な企業が終身雇用と年功序列制によって失われたこの共同体を代補した。だが、「社畜化」したサラリーマン男性が家庭より企業に優先的に帰属感を抱いているうちに、最小の血縁集団であった核家族が解体してしまった。ポスト産業社会化とともに、サラリーマンにとっての最後の共同体的よりどころだった企業も解体して、とうとう「中間的共同体」が何もなくなってしまった。まるはだかにされて、正味の個体の生存能力をフル動員して生き延びるしかない、リアル・ファイトの闘技場に私たちは放り出されたのである。(中略)
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。そういう素朴な人間的知見を、もう一度「常識」に再登録すること。それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできるいちばんたしかな道だろうと私は思う。

コメント 学校・職業訓練システムにおいて一定報われる仕組みを作るとともに、「過大な期待をクールダウンさせる」という山田昌弘氏の処方箋はシビアであるが、理解できる。最後の内田樹氏の処方箋は、曖昧な表現ではあるが、いろいろと想像を巡らせるに理解できる面もある。ただし、下線の部分が自分にはどうもしっくり来ない。どうも自分の場合、家族、縁者等いくつかの階層ごとに壁を作り、その内側のみを「共同体」と考えるきらいがあり、開かれた「共同体」というものが性向的にイメージできないようである。*1加えて、「中間的共同体」の崩壊を説明する件には唐突感があるか。
(追記)「過大な期待」(あるいは過剰な自意識)をクールダウンさせるには、恐らく、そのような自意識を超過するような人物に仕事等を通じて接し、体感レベルでその大きさを意識すること(加えて、そのような人物は必ずしも珍しい存在ではないことを認識すること−それ自体が自身の成長への機会となる。)や、あるいは、子供が自身の分身となってくれることが必要だと思う。*2しかしながら、「真性ニート」(あるいはオルテガ的大衆?)の場合は、そこに至る入り口においてそのような経験を拒否するであろうから、その問題を考える者は、問題の困難さに直面するであろうし、かつ失敗が運命づけられているとも言える。また、その意味において、「とりあえず」というのは悪いキーワードではない。
しかしながら、そのような「真性ニート」の場合であっても、その背景に長期的な流れを決定づけるものとして、マクロ経済の問題もあるとは言えないだろうか。例えば、経済の低成長は、個人の「階層」間移動を困難にする。だから、「真性ニート」になることが(確率的にみて)妥当性が高い「階層」があり、高い経済成長が、「階層」間移動を容易にすることで、この問題への一定の寄与をもたらすといったような文脈において。非常に息の長い話ではあるが。

*1:例えば、このブログは、私の家族、同僚含め、誰1人として私がこれを書いていることを知らなかったり。

*2:私自身、数年前のことを考えれば思い当たる節はあるわけで。