ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

雇用形式などに関する備忘録的整理(その1)

9月以降のエントリーにおいて、いくつか日本的な長期的・安定的な雇用システムの優位性について言及しながら、うまく整理できていないような違和感があり、現段階で、少し整理できた感が見えてきたので、備忘録的に整理しておく。
(方法論的)個人主義という考え方は、合理的な個人というものを前提とすることが重要なのだろう。合理的な個人というのは、自分なりに考えると、ある程度自分自身に見切りをつけた人間ということになる。期待の持てない将来の便益に期待し行動する人間は、明らかに合理的ではない。将来生じうる便益を見極め、それに合わせた消費行動や家族構成を考えることができる人間だけが合理的な個人と呼びうる。*1
そのように考えると、日本的な長期的・安定的雇用システムは、同一世代内の格差が生じるのを先延ばしし、若い世代の割引率を高め(あるいは若い世代の合理性を疎外し)、その間の勤労意欲を引き出す事もそのねらいの一つとされており、その意味では、合理的な個人の形成を疎外するような仕組みである。ただし、そのような仕組みの中で、個人の高い意欲の下でその(平均的な)能力が向上し、潜在的な企業の成長力が高まることは、企業全体(あるいは国家全体)としては望ましい仕組みであると見なすことができ、それによって生じる社会厚生の高まりは、ひいては、その構成員の生活の質を高めることに繋がり得る。*2
また、合理的な個人が自身の将来に見切りをつけることのできた人間だとすれば、必然的に、若年者にはそのような人間が少なく、年を経るごとに合理的な個人が増加することとなる。近年の若年雇用問題は、長引くデフレ経済の下で長期的・安定的な雇用機会が狭まり、短期的・非正規的な仕事に就かざるを得ない個人が増加したことに起因する。そもそも合理的でない人間が、そうであることを強制される雇用システムの下で、しかも自己の責任で自身の能力を高めていく必要があるといわれても、困惑するのは当然だろう。なお、合理的な個人であったとしても、失業等の突発的事故により、大きな不効用を受けるケースはあるだろう。
このように考えると、少なくとも若年者に対しては、09/22付けエントリーにあるような、個人を「労働力=人的資本」の保有者であるとみなすような擬制の下で、そのような財産権の主体として労働者を位置づけるものとして福祉国家を構想する(しかも、その「労働力=人的資本」の価値は、(外部?)労働市場において評価された限りのものである。)という考え方だけで十分なのだろうか。つまり、責任のすべてを個人に帰することのない国・地域や企業を前提とした福祉社会という考え方もまた必要なのではなかろうか(そのような考え方の中には、日本的な長期的・安定的な雇用システムの必要性ということも含まれる。)。もちろん、その反面として、個人の身体に対し、そのような国・地域や企業が、何らかの義務を課す(あるいは内面に関与する)場合があったとしても。こうした在り方は、学歴を通じて、前の世代の格差が後の世代の格差に引き継がれるという話*3や、低成長下においては社会移動が低下するといった点などを考えても、重要な気がするのだが。(たぶん)
ただし、先に述べた合理的な個人に対する失業のような突発的事故に対しては、セイフティネット(保険)による対応による外なかろう。*409/17付けエントリーの書籍においても、宝くじの結果が出る前と結果が出た後で、後者の方が格差が大きくなるのは当然、といった話がでてくるが、同じ話である。
・・・といいつつ、このような論調だと当ブログにとって身近なところにある論調と少し異なっており、必ずしも自信はないのである。唯一近い論調としては、このあたりか。*5

*1:もちろん、将来に対する割引率の大きさには個人差がある。その意味で、当該個人が合理的に行動しているかどうかは、外からは判断できない場合がある。

*2:この話は、村上龍氏や松谷明彦氏の議論にあるような「既得権」(仮にそのようなものがあるとして)をめぐる話にも繋がっている。日本的な長期的・安定的雇用システムの下では、合理的な個人の形成が疎外される一方で、外部労働市場における評価(あるいは労働の限界効用)よりも高い報酬を受けることが効率賃金仮説やインサイダー・アウトサイダー論によって合理的に説明される。合理的である以上、それを「既得権」と呼ぶことには疑問を感じるし、ほんの一握りの人間を除いて「既得権」を持たない人間などはいないように思う。加えて、04/05付けエントリーを参照。

*3:この話には反証論文もあるらしい。

*4:もちろん、やり直しがきく社会は、当然望ましいとしても。

*5:なお、ここでの立論は、「社会的公正」の観点からのものである以上に、企業や社会の活力を確保する必要性というところから行っている面があり、「社会的公正」の観点(のみ)から立論することについてはpending。