ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

「超・世代論 橋爪大三郎×東浩紀」(読売新聞 01/05/06夕刊)

 僕は最近の階層化社会論は疑問に思っています。昔は、地の獲得にお金がかかったので、富の配分と知の配分は連動していた。ところがインターネットなどが発達した現在では、富の格差は必ずしも知の格差を意味しない。『動物化するポストモダン』で僕が言いたかったのは、現代社会では、ある領域で人間的に振る舞うことと、他の領域で「動物的」に生きることがひとりの中で両立してしまうことです。実際、ひきこもりやニートが”下層階級”とは言えない。人間性と動物性が組み合わさった解離的な生活スタイルが、モザイク状に織りなすことで今の世界は作られている。こういう世界を分析するには、大変複雑な言葉が必要になります。
橋爪 そういう状況への対処法の一つが原理主義です。情報に勝手に優劣をつけ、単純に反応するようにする。政治では小泉さんや前原さんの手法がそれに似ている。

コメント 「富の格差は知の格差を表さない」傾向がかつて以上に強まっている可能性はあるとしても、知には表層的なものとは別の次元があり、また、知を解釈するための技能や、経験・人脈といった要素をインターネットから得るのは不可能。*1階層ごとに異なる機会の「質」が、ひいては所得格差を生み出す可能性は否定できまい。「解離的な生活スタイル」「モザイク状の世界」という見方は、ポストモダン的。所得格差はあっても、現代社会の価値基準は一律ではなく、ひとりの人間が別の立場にも立ちうるのであれば、社会の不安定化を避けることができるのだろうか。しかし、むしろ「現代社会の価値基準は一律」だ(、それは金だ)、と思わされることの方が多い今日この頃。所得格差を受け入れ、別の可能性の中に安住しているとすれば、それこそ、別の次元における知の格差(せいぜい「ヒルズ族」の生活スタイルに関するネタ的な情報程度のことに満足しているだけ)なのではないか。

*1:ただし、ネット上の人間関係、Blogといったところには、別の可能性も感じる。