ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

安達誠司「脱デフレの歴史分析 「政策レジーム」転換でたどる近代日本」(その1)

脱デフレの歴史分析―「政策レジーム」転換でたどる近代日本

脱デフレの歴史分析―「政策レジーム」転換でたどる近代日本

第1章 基本コンセプトとしての「政策レジーム」の重要性

  • 経済政策の「レジーム」概念を明確にしたのは、T.サージェントであり、彼によれば「政策当局が、経済政策を遂行するに当たって選択する(経済状況の関数で表現される)ルールの体系」を意味する。経済政策のレジーム転換は、経済主体の属する経済圏の先行きに対する「予想」形成のパターンを変化させることで、経済主体の意志決定、ひいては経済行動そのものを変化させる。民間経済主体と政策当局者の「認識ギャップ」は、合理的期待形成学派では、経済政策遂行に対する信頼の度合い(例えば、明確なコミットメントの有無)に大きく依存。
  • 戦前期の日本の政策レジームを、損失関数L(t)=(dY-dY*)^2+b・(e-e*)^2 の最小化と定式化し、政府が外生的に操作可能なのは、①dp*:目標名目成長率、②b:通貨システム選択のパラメータ、③e*:目標為替レート、とする。為替レートを含めるのは、国家の経済的な繁栄のためには、外交政策が重要であるため。

第2章 政策レジーム模索の過程

  • 明治新政府の政策プライオリティは、国力の充実であり、その具体的な目的は不平等条約の改正。この政策目標は徳川幕府においても同じであり、本書に言う「政策レジーム」の転換が意識されたのは、1873年に大隈重信が大蔵卿に就任し、具体的に財政政策構想を発表して以降。
  • ガーシェンクロン・モデル」では、両国の経済発展段階にあまりにも大きな格差がある場合、人的資本やノウハウの蓄積が間に合わない等の理由で、後進国の先端技術導入は失敗し、多大なコストによる財政危機等によって、経済的低迷を余儀なくされる。大隈は、インフレ率の高進の原因を、①正貨流出による政府紙幣の信用低下、②クレジット・クランチによる産業の資本不足、と考え、政府紙幣増発がインフレ率の原因とは考えなかった。また、後進国日本は民間の資本蓄積が不十分で金融システムも未完備であるため、産業革命のためのファイナンスを政府主導で行う必要があるとの考えが底流にあった。しかし、このことは、民間経済主体に慢性的なインフレ予想を熟成し、富裕農民による「投機バブル」を生む。
  • 1881年に大蔵卿に就任した松方正義は、①紙幣整理、②予算制度の不備の修正、③正貨準備の蓄積、を掲げた。松方財政において、インフレ圧力解消に最も効果があったのは、地租納期の繰上により米価高騰の沈静化。これは、金融引き締めがまず、資産価格の下落を通じて借り手の担保価値を著しく低下させ、金融機関の経営の不安定化をもたらすという「フィナンシャル・アクセラレーター」によるデフレとみることができる。一方、正貨流出は大隈財政後期の政策転換でほぼ解消しており、軍事支出の拡大は、デフレによる需要低下を穴埋めする事後的な積極財政となった。

第3章 「金解禁」を巡る政策レジーム間競争の過程

  • 日清・日露戦争後は、①旧平価での金本位制復帰と国内経済合理化・構造改革の組み合わせた「ワシントン・レジーム」、②「先進資本主義列強国」の地位の放棄と、変動相場制の下での自由貿易体制確立を組み合わせた「小日本主義レジーム」、③東アジア諸国で日本を盟主とする独自の経済圏を創設し、国家による経済の一元的な管理・計画を行う「大東亜共栄圏レジーム」、によるレジーム間競争が30年弱の長期にわたって繰り広げられた。
  • 当時の日本では、「余剰人口」が問題となる。1929年の高橋亀吉「日本資本主義の合理化」では、①キャッチアップ型経済成長過程が終演し、成長フロンティアが枯渇、②ワシントン条約締結後、「帝国主義」的海外進出の余地が著しく低下、③財政、国際収支の「双子の赤字」、④不平等の激化と「勤労モラル」の低下、⑤政財界の癒着と不採算企業救済負担の増大、から、日本経済は行き詰まっているとし、これらを断ち切るために、3つの政策レジームは提示された。しかし、当時の日本経済には、なお潜在的には「成長フロンティア」が存在し、ドーマー条件が満たされていることから、③についても大きな問題とは言えない。
  • (1929年の)濱口内閣(井上蔵相)では、金解禁断行を選択したが、そもそも、金解禁によって再建金本位制採用国の仲間入りを果たすことが目的であり、それを実現するために、不採算企業等の淘汰等の産業合理化政策を進める必要があったものが、いつの間にか、金解禁が産業合理化を実現するための方策として「本末転倒」的に位置づけられるようになる。一方、「社会的弱者」の救済には消極的。当時の軍部は、下級将校を中心に農村出身者が多く、このことが、後の軍部の台頭と政党政治消滅のきっかけになる。

第4章 「小日本主義レジーム」によるデフレ脱出過程とその「疑似性」

  • 石橋湛山等によって提唱された「小日本主義」は、スミスやミルの経済思想である自由放任主義経済と反帝国主義を結びつけ、大不況下の英国における「本国の過剰人口のはけ口としての植民地の現実的な価値」を否定し、対外膨張主義の問題点を指摘した「小英国主義」に準えたもの。日本が植民地を放棄すれば、植民地経営のコストが軽減され、開放したアジア諸国の経済発展によるメリットを享受できるとした。しかし、(1931年の)犬養内閣(高橋蔵相)では、大国・帝国主義的な政治思想を併せ持つ擬似的な政策レジームであった。

第5章 「大東亜共栄圏レジーム」の台頭

  • 2.26事件(1936年)後の広田内閣で蔵相に就いた馬場硏一は、地方・農村重視の財政政策思想を持つ。軍事支出と農村対策費による財政赤字の拡大が、大量の正貨流出をもたらした。宇垣の組閣失敗と「池田路線」の挫折により、「大東亜共栄圏レジーム」への転換が決定的となり、「総力戦」を可能とするための「統制経済」がとられるようになる。

コメント 第二部まで読了。著者は、歴史分析の意義について、現代のマクロ経済学は、情報処理能力の飛躍的な発達により、ミクロ的基礎を有するマクロ経済モデルによる政策シミュレーションが可能になったが、政策の採用プロセスには、政治プロセスや政策思想など数値化されない要素が働くことや、経済主体の期待形成プロセスには、過去における「経験知」や思想、哲学などが反映されているはずであり、歴史的な実証分析もその重要性を失っていないと述べる。実際、本書に取り上げられた時代の動きは、容易に、現代にも重ね合わせてみることが可能である。しかも、現代の経済論議の中で、このような過去の「経験知」が、いかに顧みられることなく進んでいるかということを強く認識することになるだろう。正に「健忘症」である。(続く)