備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

中山元「レヴィナスにおける哲学と宗教−レヴィナス「神学と哲学」を読む」

 立岩理論を考えながら、似たような話を何処かで見たことがあるなぁと思い、思い出したのがこの論文。

 主体は自律的な主体として成立しうるのではなく、すでに他者に責任を負った主体として成立してしまっているのである。...人は自由な人間として他者に対峙すると考えるのは幻想にすぎないのである。...このようにしてみると、主体と主体の関係は相互的なものではないことがわかる。わたしは他者に対して、告発された対格として登場する。私はつねに他者から責任ある者として、告発されているのである。レヴィナスはこの状況を〈顔〉という概念で提示する。他者は〈顔〉をもつ存在であり、その〈顔〉がわたしを「告発する」のである。

 レヴィナスはこのカインの冷たさは、責任というものを自由と契約のモデルで考えることに始まると指摘している。このモデルでは、自由な主体が他者の面倒をみることを契約した場合に、はじめて他者に対する責任が生じると考える。...レヴィナスはこのような自由と契約のモデルで考える限り、つねにこうした冷たさが本質的なものとなることを指摘する。レヴィナスにとっての責任とは、他者の〈顔〉がわたしを告発することを認めることであり、他者の告発を無視することができないこと、他者が自己にとって重要な意味をもつ存在であることを認めることである。...責任を負うことは、弟の面倒をみること、弟の人質となることであり、そこに「近さ」がある。そしてレヴィナスは、そこにはじめて自由の可能性が築かれると考える。

 久しぶりに内田樹氏の本でも読んでみるか、とオモタ。