備忘録

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仲正昌樹「ネット時代の反論術」

ネット時代の反論術 (文春新書)

ネット時代の反論術 (文春新書)

コメント 先日取り上げた飯田「ダメな議論」が、議論の論理的な側面に注目し、ダメな議論(「無内容な主張」や「明らかに間違えている主張」)を洗い出すものだとすれば、この本は、議論のパフォーマティブな側面に注目し、その勝ち負け(仮にそうしたものがあるとして)を考えるもの。これまでの論争は、自分の著書を持つことができたり雑誌等の媒体に文章を載せることができるようなコネを持つ一部の識者のみに許されるものであったが、ブログ等の媒体は、それを多くの人に開放することを可能にした。そこで生じてきたのは、全体の脈略を読まずに一つの言葉に対し、反射的に反論すると言ったような批判の仕方(「脊髄反射」と呼ばれている)である。
 本書では、まず、このような不愉快な議論に巻き込まれた際の「戦術」を検討している。著者に拠れば、反論する際には、まず目的意識を持たねばならない。その目的に応じて、①見せかけの論争、②論理詰めの議論、③人格攻撃、という3つの反論術が生み出される。「話」というのは、そもそも、それ程通じ合えるものではない。また、特に③のような場合には、(勝ち負け上は)結果的に暇な人間が有利になってしまう。数々の論争に巻き込まれた経験を持つ著者の話だけに、経験談を含め、とても面白く読めた。*1
 「終わりに」で述べられる著者による結論は、そもそもこの本が(実際には題名とは内容が異なり、)反論合戦のばからしさをアイロニカルに距離を置いてみるような内容になっているとし、その上で、次のように述べられる。非常に教訓に満ちたものであると言えるのではないか。

 若い頃、具体的に言うと、三十代の半ばまでは、もう少し「言葉の力」なるものを信頼していたし、人と”言い争い”になったら、論理的にシロクロつけないと気がすまないというところもあった。しかし、偉い人は、こちらがいくら真面目に批判しても、金持ち喧嘩せずという調子で無視するし、うさばらしで誰でもいいからと見境なしに喧嘩をふっかけてくる2ちゃんねらーのようなバカ者たちは、こちらがいかに論理的に話をしても理解せず、馬耳東風で聞き流してしまうということが実感として分かってきた。社会的立場上、反論せざるを得ない場合は別として、話の通じない連中は、本気で”反論”する価値のない蛆虫のような存在であり、それに反論したいという欲求を抱いてしまう自分も、人間のクズである、というニヒリズム的な認識を持つようになった。

余談 さて、本書にて特に対象となるパフォーマティブな議論についてであるが、自分は以前、それを非常に毛嫌いしていた時期があったが、最近になり、そこにある種の「芸」がある場合には、一定の抑制がある中で議論の「場」に面白い効果をもたらすことがあり、また、後に一歩引いてそれを考えてみた時には、教訓的なものをそこに見つけることができる場合もある、ということに漸く気が付き始めている。ただし、特にポリティカルにコレクトな立場から、(自らの本音がどうであれ、)意図的なパフォーマンスを行うような議論の仕方には、(その不誠実さ許容し難く、)相変わらず嫌悪感は否めない。(とは言え、その場合でも、そうした議論を行うことがその者のフォーマルな仕事の価値を下げるわけではない。)こうした議論の「機微」については、自分のネット中毒度が増すに従いw、敏感になってきたような気もする。

*1:また、ブログ界隈での議論をみていると、本書で取り上げられているような議論の仕方に良く当てはまる実例は盛りだくさんである。