ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

内田樹「下流志向 学ばない子供たち 働かない若者たち」

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

 下記のコメントについては、十分に議論が整理されていないにも拘わらず、比較的アクセス数が多く、かつ内田氏批判の文脈で使用されるケースが見受けられるので、修正します。自分としては、本書を社会科学の文献として活用することは誤りであり、哲学者の語る表層的評論とする必要があるように思います。その様な活用に限定する限り、本書は、評価すべき概念規定や思考の枠組みを含むものであるとも言えるでしょう。  

コメント 現在読んでるところ。この本に対する纏まった論評は後日。以前取り上げたニート(真性ニート)に関する考察など、興味深い内容もみられるが、ここでは、気になる論点を一つだけ取り上げる。
 内田氏は、人間が消費者として関係する空間的な市場取引は、全て「等価交換」であるとみなしている。市場が商品の価値を定める機構である以上、その見方は正しいものであるが、同時に、が、このような議論の仕方には若干の違和感が残る。市場取引は、それぞれの経済主体の効用が高まる場合にのみ成立するのであり、社会的に「等価」であっても、個々人の効用のレベルでは「等価」ではない。つまり、市場取引を経由することによって、経済主体の総体の中には、これまでに存在しなかった新たな価値(付加価値)が生まれるのである。市場経済は、ゼロ・サムのゲームではない。取引が成立すると言うことは、この意味で、それに関係する各経済主体は異なる価値体系の下にあると言うことである。もできる。市場取引を通じて始めて「商品」となるという不思議を、嘗てマルクスを引用した柄谷行人が「暗闇への跳躍」と呼んだ(と記憶している)が、このある種の「違和感」を平板にも「等価交換」と呼んでしまう内田氏のセンスには疑問も感じるところであり、本書の議論には、このような市場を通じた交換と、生産のような、謂わば「暗闇への跳躍」を介した交換との間に、どの様な違いがあるのかについては、まだまだ深く検討すべき要素の余地があるように思える。
 学びや労働を時間的なプロセスの中に置き、それを計るための「ものさし」を持たず、「無時間モデル」の中で合理的に考える現代の子供や若者という話の枠組みは面白いが、その前提にある「時間的なプロセス」という考え方自体も、は、数十年前の柄谷行人マルクス等の枠組みと大きな違いはないように思える。「無時間モデル」を「アメリカン・モデル」と言い切ってしまう平川氏やそれと馴れ合う内田氏など、議論の平板さは拭えず、まるでパロディーとして遅れてきた柄谷氏の議論をみているようである。
 なお、本論的には、「構造的弱者」という論点を、マクロの経済・社会の大きな枠組みの中で、どの様に捉えなおすか、という点を考えてみたい。

(追記)考えるのや〜めたww