ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

小川和也「鞍馬天狗とは何者か 大佛次郎の戦中と戦後」

鞍馬天狗とは何者か―大仏次郎の戦中と戦後

鞍馬天狗とは何者か―大仏次郎の戦中と戦後

コメント 大佛次郎の「戦争責任」を未再刊の作品群を読み解くことによって描き出し、その思想と行動の源泉を(私小説の傾向を強める日本の近代文学の中にあって)「大衆小説」家として、常に「国民」とともにあるという同胞意識の中に求めている。大佛の描く(或いは彼自身の分身たる)鞍馬天狗という存在は、独りの「個」としての存在でありながら、その「個」は社会化されたものである。

鞍馬天狗は常に独りであり、「個」として存在する。だが、その「個」のありかたは、社会と距離を置き、自己の世界に閉じこもるようなものではない。天下国家への関心をもち、社会変革の可能性を信じて疑わない。現実逃避型の「個」ではなく、また、自己の欲望のみを追求する利己的な「個」でもなく、政治状況のなかに身をおき、必要があれば他の「個」と連帯して権力と闘う社会化された「個」である。

 戦後民主主義の中でもたらされた高度経済成長は、国民意識の私生活主義化をもたらすが、鞍馬天狗に傾注する小川は、そうした時代の流れには批判的である。一方、「滅私奉公」、つまり「私」を棄てて「祖国」に献身するような愛国心は、さらに危険なものである。「「私」的欲望を超えて「自由」という「大義」に飛び込む覚悟」といった言葉に表れるような、「個」として在りつつも、「物における(の中での)自由」を追求することが、大佛の精神を引き継ぐことであると言えようか。*1
 大佛次郎を通して、戦中・戦後の政治・社会を考える書でもあり、興味を引く論点は数々あり。

*1:こうした社会化された「個」という見方の現代的意義を見通すことは難しい。何故なら、近年想定されているのは、「幸福」を欠如させる「下流」意識が社会化された意識へと繋がる一方で、そうした意識から逃れることのできた者は、「幸福」の中で私的生活の内側に止まる傾向を強めるためである。こうした「拗れ」を解く鍵は、「下流」意識を引き下げる政策的対応によって、社会の紐帯を取り戻すことにあるのではないかと考えたりする。