ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

計画主義者化されるケインズ――誤った読解によるその「可能性の中心」(未定稿)

※大幅に修正を加えました。また、中谷巌マクロ経済学入門」(第1版)の内容を若干記述しました(03/28/09、03/31/09)。

計画主義的なケインズ読解

 ハイエクを読みつつ、自分はHayekianであると強く認識するこの頃であるが、ルールを重視し恣意性を持つ計画主義に批判的なハイエクのスタンスは、むしろ、現代的なKeynesianの立場に共通するものであろう。(たとえそれが、ケインズ自身が、その置かれた時代背景から必ずしも重視しなかった金融政策に関わるものであるにしても。)

隷従への道―全体主義と自由

隷従への道―全体主義と自由

 ところが、ちかごろ目につくのは、国家等による計画的な政策ビジョンの重要性を唱いつつケインズの意義を主張する「向き」である。このような「向き」の行き着く先にあるのは、結論を先取りすれば、人口減少社会下でのいわば国民の「動員」であり、(大企業を中心とする)労使及び国家の恣意による計画的な経済の運営である。そして「国土の均衡ある発展」という言葉――計画主義者や社会主義者にとって、その言葉の持つ「美しさ」には、逃れ難いものがあるに違いない――は、喧伝される格差問題の広がりの中で、言論上の大きな位置を占めることになるような気がしてくる。

 さて、計画主義者にとっては、一般均衡のような理想的な経済はまれにしか生じないものであるとし、経済が均斉的な成長経路をたどるための需要喚起政策を重視するケインズは、その主張を覆うに最適なビッグ・ネームであると言えよう。(ケインズ主義とは、福祉国家政策ともほぼ同義として扱われる位である。)無論、「一般理論」は当時の時代背景を考えればむしろ「保守的」であるというような話は彼らには見えていない。また、現代の主流派の位置を占める「新古典派」的なマクロ経済学の大きな要素が「一般理論」から受け継がれているなどとは露とも考えていない。
 彼等が主として批判の対象とするのは、ケインズの分析を古典派理論の1つの特殊理論と位置付ける「新古典派総合」であり、ひいては「新古典派」と名の付くあらゆる理論をその批判の射程におくこととなる。そして、「一般理論」の一般性を救い出すための切り口として「有効需要の原理」をキー・コンセプト化し、将来の需要の姿を見通すことができるエリートとしての国家等の意義を導き出すという力業である。このような議論の展開は、クルーグマンの指摘に垣間みられるようなケインズ読解の「可能性」を大きく外しているといえるであろう。
 このようにみてくると、この誤ったケインズ読解は、マネタリズムやニュー・ケインジアンの貴重な論点をも失わせてしまっていることは必定である。さらには、長期不況期における総需要の不足を指摘する「リフレ派」の議論すら、その計画主義の文脈に取り込んでしまうこともある。こうした事実をみるに至り、Hayekianとしてはもはや看過し難いものがある。さらにいえば、この誤ったケインズ読解は、(人口減少社会の中にあって顕在化するとみる)「相対的過剰雇用」の議論と結びつくことで、いわば、ケインジアンマルキストという「美しき」一体形を生みだすことにもなるのである。げに恐ろしや!*1

自然失業率仮説の一般化

 マネタリズムやニュー・ケインジアンの議論がどこかに吹っ飛び、これらがおしなべて「新古典派経済学」とされてしまう*2ことの帰結は、ある重要な点に盲目となることである。例えば、ニュー・ケインジアンが指摘するのは短期の問題への金融政策の有効性であるが、この点は(ネオ・クラシカルならぬ)ニュー・クラシカルの議論とは大きく異なっている。しかし、彼らの議論では、このような区別そのものがあいまい化され、おしなべて批判の対象とされてしまうのである。
また、持続的な低インフレ下においては、労働市場において調整されるのは期待実質賃金であるという「自然失業率仮説」の含意を一般化する中谷巌の議論を考えてみよう。自然失業率仮説の考え方に従うと、企業は自己の製品の価格上昇についてはすぐに気がつくものの、一般物価の上昇(インフレ)を認知することにラグが生じることで、企業は雇用を拡大し完全失業率が改善する。こうして、インフレ率と完全失業率にはトレード・オフの関係が生じ、右下がりのフィリップス・カーブが現れるが、企業がインフレ率の上昇に気がつけば、期待インフレ率は修正され、完全失業率はゼロ・インフレ率の水準にまで戻ることになる。他方、企業の期待インフレ率が正確で、認知ラグがない世界では、フィリップス・カーブは常に垂直である。
 こうした考え方に対して、中谷は、「インフレーションが低率であればあるほど、また安定的であればあるほど」フィリップス・カーブは、長期においても右下がりになることを指摘する。なぜなら、こうした状況では、実質賃金(貨幣の購買力を加味した賃金水準)が安定的であるという期待が生じることで、賃上げ交渉での労働者の態度が協調的なものとなり、大きなインフレ率の上昇にはつながらないためである。

 この議論から示唆されるのは、物価が低率で安定的なもとでは、(つまり、「フィリップス曲線の右側の世界」では、)ケインズ政策は長期的にも有効性を発揮する、ということである。しかし、こうした議論などは、ケインズを計画主義的に読む者たちにおいては、一律に、ケインズ批判の枠組みの中に扱われることで、入り込む「場」そのものが奪われてしまうのである。
 こうした重要な論点に盲目であり、人口減少下にあって技術革新等にともなう経済のフロンティアの拡張を過度に悲観する、彼ら計画主義者の誤ったケインズ読解に、いったいどのような意義があるといえるのだろうか。とはいえ、このような議論は、経済を知らぬ「知識人」の琴線を触らすものであり、格差問題の喧しさの中で、ますます力をつけているようにみえる。計画主義者を黙らすことは、いかに難しいことであろう!

(参考)

*1:大概の者は人口減少社会をあまりにも安易に人手不足社会と考えてしまうため、この「恐ろしさ」の存在にすら気付いていない。しかし実際には、市場の調整に過度な期待をすることはできず、人口減少にともなう総需要の減少にみ合う需要を作り出すことが困難になると、GDPギャップや完全失業率は拡大するであろう。

*2:ゆえに、ケインズと対照される存在は、A・スミスにまで遡らざるを得ない。なお、A・スミスは「古典派」ではないか、といった批判はこの際留保する。