ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

山田昌弘「希望格差社会 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」

コメント 一読して判るように、本書の時代認識は、以前に当ブログでも取り上げた高原基彰「不安型ナショナリズムの時代」とほぼ一致している。というか、同書が本書から強い影響を受けているということなのだろう。これらに共通する時代認識は、今でも多くの若年格差論の重要な骨格を成しており、この問題を(景気循環的な観点からではなく)歴史的な視座から捉えることの有力な根拠となっている。この様な時代認識、特に労働やグローバル化に関する見方*1についての批判は、既に行った高原本への批判で概ね事足りていると思う。
 著者の言う「パラサイト・シングル」は、豊かさの中に潜む貧困の可能性を指摘したものであり、その慧眼は評価されるべきである。しかし「希望格差」は、その背景にある1990年代以降の長期不況・デフレの問題を抜きに論じることはできない。高度成長期から既に始まっているグローバル化やサービス経済化を1990年代以降の事象に当て嵌め、それを過度に問題視する著者等の感度は凡夫の理解を超えるものであるが、何故その様な議論に人が引きつけられるかについては、何となく解るところもある−−つまり、誰もが「物語」を欲しているのではないか、歴史の中で宿命づけられた悲劇の主人公を演じたい/見たいのである。小難しい数式についての語りよりも、ロバート・ライシュの本にあるような壮大な演題についての語りに多くの人が引きつけられるとしても、決して不思議ではない。
 近年の成果主義的な賃金制度は、長期不況・デフレという問題と伴に、高学歴化・高齢化という人口構成上の問題もその背景に持つ。その結果、大卒であっても誰もが大企業ホワイトカラーの職を得られるわけではなく、誰もが管理職層に就けるわけではない状況が生まれる。「物語」への欲望も、嘗ての世代が当たり前のように得られたステイタスを得ることのできない、ある種のインテリ層にその震源が在る気がする。*2

 誤った時代認識は、社会政策に対する誤った視点を産むことに繋がる。本書が提唱するのは、先進国共通の課題であるニュー・エコノミーが生み出す「希望」の格差に対応するため、「個人的対処への公共的支援」(ライシュ)、「リスクや二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出」すという、謂わば「人間の改造」である。*3そもそも、長期的な景気の拡大が継続する欧米の議論を1990年代以降の日本にそのまま当て嵌めることには問題があろう。
 長期不況の中で、日本の純輸出(輸出−輸入)の額は拡大している。これは、国内投資の相対的な縮小を意味し、グローバル化が本来もたらすはずの産業構造調整を遅らせ、生産性が相対的に低い産業が生き残り、これらの産業における低賃金労働も維持されることに繋がっている。また、「希望」を生活満足度に置き換えると、長期的に変動の少なかった日本の生活満足度は、1990年代以降に急速に低下しているのである(白石・白石「幸福度研究の現状と課題」)。
 これらの視点に立てば、焦点を当てるべき政策が何処にあるかは、もはや明らかであろう。

*1:これを今後は「にゅうえこのみい論」と呼ぶことにしたいw

*2:しかしながら、本書において著者の語る、高度成長期には学歴等に拘わらず「企業内で昇進し、給料が高くなる」という点に質的な差がない(p.96)という指摘については、もう少し考えてみたい。

*3:キャリア・カウンセリング等個々の施策については、必ずしも反対するものではない。