ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

日本版ニュー・エコノミー論と格差問題(4)

 本連載については、この第4回で締めることとします。内容についても、最初の口上から少し変更しております。

(過去のエントリー)

承前。

日本の格差問題の「問題の本質」は何だったのか

 ここで、本連載を締めることになるが、最後に、日本の格差問題において、その「問題の本質」は何だったのかを、改めて整理してみたい。ここまで述べてきたことから明らかなように、近年の所得格差の拡大は、ニュー・エコノミーや新自由主義といったキーワードをいったん離れ、マクロの経済情勢との関係から論じるべきものである。しかし、この議論が単に経済問題に止まらなかった理由として、その影響が、若年者に集中して大きな影響を与えたことをあげることができる。
 1990年代における所得格差の変化をみるため、性・年齢別のジニ係数を2時点間比較したのが下の表である。*1

 ポイントをまとめると、次のようになる。

  • 男女を問わず、所得格差の拡大が最も大きいのは15〜29歳。ただし、正規職員・従業員に限ると、格差の拡大は小さく、格差の拡大は、主として非正規雇用者の増加によると考えられる。
  • 男性の30〜39歳では、正規職員・従業員で所得格差が拡大。その背景として、バブル期の大量採用、女性の就業参加の拡大という構造的要因から企業の雇用管理の仕組みが変化し、この年代の格差を拡大させた可能性が考えられる。ただし、男女計でみれば、その効果は失われる。その一方、雇用者全体では、男女計でみても格差は拡大しているが、その理由としては、就職氷河期非正規雇用者となった者の年齢が高まったことが考えられる。
  • 女性の40〜49歳、50〜59歳においても所得格差の拡大がみられ、これも、非正規雇用者の増加によるものと考えられる。

 これらのポイントのうちで重要なことは、いうまでもなく、若年者間の所得格差の拡大であろう。新規学卒時に正規の仕事に就けない場合、年齢が高まっても、不安定な就業を継続せざるをえない。一方、若年者を、現行の福祉国家的な社会政策の範疇で捕捉することは難しい。この問題は、将来的に、広く社会全体に影響を及ぼすものといえよう。

誤った政策提言

 さて、この問題について、近年の格差の拡大をニュー・エコノミーによるものとする山田昌弘が提唱する政策をみておこう。

 ライシュらの議論が示唆するのは、「個人的対処への公共的支援」が必要であるということである。私は、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となると信じている。(中略)
 「機会だけ与えて結果は知りませんよ」というシステムが多くの若者を落胆させている。学校システム、職業訓練システムでは、これくらいの努力をしたら卒業、もしくは、資格をとれば、これくらいの仕事につける、収入が得られるという保障をつけたメカニズムをつくるべきである。(「希望格差社会 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」)

 こうした施策を機能させるため、山田は、過大な期待をクールダウンさせる職業カウンセリングのシステム化を提唱している。こうした施策の是非については、賛否それぞれあるだろうし、必ずしも否定しきれるものではない。ただし、それだけで十分というものでもない。
 また、ニュー・エコノミーという現実を受容し、それに見合ったものに人間を変えていくという「改造」の思想がここにはある。しかし、産業構造の変化が山田が考える以上に緩やかなものであれば、人間の行動は、自然に漸進的にそれに適合する。国家の力で個人を「改造」するという考え方には、危険な一面があることも事実でろう。

この問題を解決する上で必要なことは何か

 若年者の失業や不安定就業を改善する上では、まずは、持続的な経済成長を実現し、潜在的な労働力に見合う企業の労働需要が確保されることで働きたい人が皆働くことのできる「完全雇用」を目指すことである。そのためには、一定のルールに従うより透明度の高い金融政策が人々の期待に働きかけることによって、安定したインフレ率を達成することが筋道となろう。
 しかし、今、目の前の危険にさらされているとき、こうした、一見悠長なシナリオを信じることは難しい。それゆえ、声を上げる者が語るのは、先に指摘したような、新自由主義への批判や既存の諸機構の改革ということになりがちである。このような話から出てくる政策的帰結は、ミクロの個人を直接対象とする支援であったり、制度を変えることで、ゼロ・サム的に自分の取り分を増やすことであるため、そのシナリオはわかりやすい。
 もちろん、ミクロの個人や制度に関わるような政策が全く必要のないものだ、などと言うつもりはない。例えば、本連載(1)に取り上げたセグメント化された労働市場のモデルに則していうならば、セグメント間の「壁」をできるだけ柔軟なものにするような政策は意味のあるものである。つまり、(より効率的な制度運営を心がけつつ)不安定就業者に対し、雇用機会へのアクセスがより容易なものとなるような仕組みを用意したり、教育訓練の機会を提供することは重要であるといえる。

政策決定過程に内在する不都合

 とはいっても、ミクロの政策は、マクロ経済の前提のもとでしかその効果を計ることができない。前提条件が変わってしまうと、議論に耐えうる政策効果の測定はできないのである。また、労働需要の高まりがあってこそ、そうした政策が生きるということも事実であろう。現実には、マクロ経済運営という「別の場所」での決め事によって、ミクロの政策の効果は左右されてしまうことになる。
 例えば、既に指摘したように、総需要が高まらずデフレが継続する状況で、供給側の効率性を高める行動をとれば、むしろ非自発的失業の増加を引き起こす可能性が高い。これを野口旭と田中秀臣は、総供給曲線が完全雇用水準で屈折した総需要・総供給分析によって表現している(「構造改革論の誤解」等)。

 経済が完全雇用を実現すれば、生産能力が限界に達することから、需要の高まりは直接的に物価の上昇につながる。一方、需要が高まらない中で供給側の生産性が向上し、同一の労働投入のもとでの産出量が拡大すると(図の黒線→赤線への変化を参照)、需給ギャップはむしろ拡大し、非自発的失業が増加することになるのである。
 再度、本連載(2)における、ジニ係数完全失業率の推移をみていただきたい。1990年代において、財政制約の下、本来必要とされる需要の拡大ではなく、効率性を高める政策に注力したことが、その後どのような経路をたどったかを考えると、この図の含意が重要な意味を持つことを理解できよう。その上で、本連載(3)の最後で指摘した、高原基彰八代尚宏大竹文雄らの提唱する既存の諸機構の改革が、今問題となっている若年者の不安定就業を改善してくれるものなのか、今一度考えてみてはいかがだろうか。
 マクロ経済政策運営とミクロの政策は、それぞれ、必要となる施策の対象に適切に割り当てて実施する必要がある。失業や所得格差の問題は、マクロ経済政策運営によって、適切にコントロールすることが必要である。一方、現状の若年者の問題を改善するためには、適切なマクロ経済政策運営のもと、ミクロの政策を打つことも必要なのかも知れない。しかし、それが、労働市場を柔軟にすることで供給側の効率を高める政策であるのかどうかは別である。
 マクロ経済とミクロの政策を融合する、大きなシナリオで考える視点が必要なのだ。今の政治に求められているのは、こうした全体を鳥瞰するパースペクティブの中で、効率的・効果的な政策プランを考えることであるといえよう(了)

*1:所得は労働所得。対象は雇用者に限られ、失業者は含まない。