ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

「経済政策形成の研究 既得観念と経済学の相克」合評会(経済理論史研究会・早稲田大学)

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

 昨日、標記の研究会があったようです。詳細な内容についての報告はできませんが、以下概要のみ。(十分な書き取りに基づかない意訳的メモですので、文責は当方にあります。抜け落ちた重要な議論がありましたらご指摘ください→出席者の方)なお、本書の内容については、こちらを参照。

報告者による報告

 最初に、野口旭氏より、本書ができる経緯と、主として第1部の内容について、また、今後の課題についての報告。
 デフレと構造改革をめぐる経済政策論争を通じ、経済政策そのものだけではなく、それが形成されるメカニズムを分析する必要性を感じた。専門家と一般の人々の間では、認識モデル(=観念)が大きく異なり、専門家が世論を説得することの障害となる。特に、政策の因果的帰結が自明ではない場合には、世論や政策決定プロセスにおいて、特定の利害関係よりも、観念の役割が大きくなる。こうした場合、専門家がやるべきことは、一般の人々を説得・啓蒙することである。その上で、ときに鋭く対立する専門家の問題意識の間に、「共通の知見」を見出すことが必要になる。
 今後の課題としては、知識のバイアスは何によって生じるのか、経済学教育の役割、「偉人の思考」ではなく「陳腐化された思考」を研究することなどがあげられる。

討論者による報告(江頭進氏)

 その後、2人の討論者による報告とそれに対する執筆者からのコメント。最初の江頭進氏の報告は、恐らく、今回の研究会の「コア」であり、重要な論点を提示するものでした。
 江頭氏は、本書の提起した経済政策における観念の役割の重要性という論点に同意・評価するとともに、それが暗黙のうちに提起した問題について指摘する。*1

・本書の中で目指されたものは、現代の経済学(特に理論)の方向で実現できるのだろうか?
・もしそれが実現できたとして、政策提言は可能か?
・政策提言ができたとして、世論との関係で実際の政策となりうるか?

 20世紀後半から進化したニューラル・ネットワークなどの理論は、人間の内部モデルが、外部の環境との相関によって進化し、あるいは自己組織化することを前提として議論する。これに対し、経済学者の考える内部モデルは静的なものであり、観念の役割は指摘できても、観念形成のプロセス、起き得る他の選択肢を理論的に説明することはできない。
 心理学の発達を吸収した認知経済学、行動経済学の方向性についても、実際には、心理やそれに基づく行動、環境との相関をモデルに入れれば入れるほど、そこから導かれる結果は複雑なものとなり、実現可能なほどシンプルな政策的含意を導きにくくなる。現在の経済学は、静的な意志決定理論に留まっているがために、わかりやすい政策的含意を導くことができているとも言えるのである。しかし、経済学を政策提言の科学であると割り切り、人間の主観性を合理的期待形成モデルぐらいにとどめておいて、明確ではっきりした政策的含意を出せるようにすべきだとの立場からは、歴史的時間の中で変化する観念の動きを描き出すことができない。
 経済の専門家は、「共通の知見」によって、間違った経済理解を正すことはできるが、観念の重要性を認めれば認めるほど、「Aという政策をとるとBという効果が現れることがある」という程度のことしか言えなくなる。経済学は、行動とその基礎となる観念のメカニズムをまだ理解しておらず、たとえ理解できたとしても、経済合理性に基づいて行動すべきだとまでは言えないからである。
 最後の世論との関係の論点については、日本の経済学教育の「実情」や、経済学を選択する人間そのものの特徴についての話題で話が和む。

討論者による報告(服部茂幸氏)及びその他の質疑

 続いて、服部茂幸氏から、第2部、第3部についてのコメントがありましたが、なぜそのような疑義が生じるのか、個人的にはよく理解できませんでした。(新幹線で研究会に出席するのが大変だ、ということはよく分かりましたが。)むしろ、流動性の罠に関する論点や、期待の効果についてのより先鋭的な批判などがあったら、もう少し、議論が盛り上がったのではないか。*2
 その中で、原田泰氏の書評で指摘された「専門的知見と通年という区分けすべてには賛成できない。デフレをめぐる専門的知見は分裂している」という点に賛同でき、戦間期金本位制の復帰について、ピグー、ブラッドレーなどは賛成の立場にあったことを指摘。これに対し、専門知の中にも解決しえない問題があったということで、「共通の知見」の形成によって、現在は解消されているとの回答があった。
 その他、質疑については、次のような議論がありました。

  • 第5章については、三木清にとって宗教的信仰が重要であった点を取り上げ、そうしたものによって生産性を高めることはできない、との結論になっているように読める。これに対し、ウェーバーの指摘するプロテスタンティズムの倫理のように、人間の宗教心が生産性に結びつく回路にも目を向ける必要があるのではないか、との意見を住谷一彦氏より頂いた。
  • 情報の正しさを判断するには、追加的な情報が必要であり、その過程は無限に続くので、結局、情報は完備にはならない。情報のコストを考えると、どこかで断ち切る必要があり、最後は何らかの「権威」によって結論づけられることになる。主観的なものを考える場合、「情報」「知識」をどう定義づけるか、検討する必要がある。
  • 認知バイアスがどこから生じるかについては、生物学的特徴であって、その解明には、文化人類学的知見が必要となるのではないか。ナイト的不確実性はコントロール不可能かも知れないが、いくつかの制度的設計(保険など)は考えられる。また、認知バイアスを持っていても死ぬことはない。人間は、市場を利用しなければ生きていくことができず、無意識のうちにそれを利用している。ただし、それが意識化されたときに、反発を覚える。社会的構成物についての議論。
  • 猪木武徳氏は、20世紀の特徴として、現実に興味がない経済学者の誕生を指摘。マスキン、デブルー、パシネッティなどは、経済政策に興味がないことを明言している。しかし、「分業」できていればよいのではないか。第2章では、専門家と一般人の間に「仲介者」の存在があることを指摘している。

感想など

 全体として、江頭進氏の存在が、この研究会を有意義にし、今後の議論の発展につながる重要な役割を果たしていたような気がしました。
 個人的に思うのは、経済学者の専門家としての役割を考える上で、経済学者あるいは経済学に対する人々の信頼というのものを考えることも重要だということ。例えば、パレート改善命題に関連するが、効率と公平のトレード・オフについて、経済学の立場から、それがどのようにあるべきかという問題に対して、答えを出すことはできない。しかし、一般の人々は、往々にして経済学者は、公平よりも効率を重視する「人種」であるように感じているのではないか。
 経済学は、社会問題について、科学的な視点から分析をする重要でかつ唯一のツールだろう。この重要なツールに対する世間の錯綜しかつ誤った認識を正していくことが、先ずは必要となることであるようにも思う。

*1:レジュメは著作権の問題があるのでアップできませんが、本人ないし学会がアップしてくれることを希望します。

*2:例えば、伊東光晴「ドルは静かなる崩壊に向かう」(エコノミスト12/28/07)によれば、服部茂幸「貨幣と銀行」では、不況からの脱却のための超低金利量的緩和政策は、何の効果もなかったと論じているとある。