ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

カール・ヒルティ「幸福論(第一部)」(2)

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

キリスト者の内側のみに閉ざされた幸福論

 ヒルティの幸福論は、Amazon.comの「売れている順番」をみると、アランやラッセルのそれよりも上位につくようである。しかしこれは、自分の読後感からすると、かなり意外な結果という印象を受ける。何故ならば、ヒルティの論じる「幸福」は、あくまでキリスト者の内側に閉ざされた限りでのそれであり、その「外部」で考える場合には、なんら感動を与え得るものでないからだ。
 ヒルティは、本書の最後の章において、「崇高な倫理的世界秩序に対する各個人の、やがては世界の全民族の、自由意志による従順こそは、世界史の目的であり目標」であると言う。この箇所は、哲学が、大規模な救いを人類に与えることに成功し得ないのに対し、宗教による世界秩序は、人々を救いに導くことができることを論じる際に述べられたものであるが、結果的に、それが、キリスト教内部においてのみ可能であることを、図らずも示すものになっている。
 それだけではなく、その「自由」という概念も違和感を残す。ヒルティの自由は、良心の呵責のない内的平和のうちに実現されるものであり、そのため、信仰が大事なものとなる。ところが、信仰は、自由にとって必ずしも必須なものであるわけではない。アニエス・ヴァルダ監督「幸福」の主人公フランソワは、良心の呵責なく、無垢な心で一途に、妻や子供たちがいる世界とは別の世界に愛を追い求め、それを得ている。しかし、その愛は過剰なものであり、均衡ある世界の中に構成しうるものではなかった。その愛(と、それによってもたらされた幸福)は、妻が謎の死を遂げることで、始めて均衡ある世界の中に位置づけられたのである。このような、過剰な幸福の追求を自由に行うことができる人間の存在は、ヒルティの語る「自由」が、本来的な、あるいは根源的なそれではないことを証明している。
 信仰による幸福は、それによって切り開かれた次元に位置する人々において始めて可能になるものであり、その外部に広い領野を求める者たちにとっては、そのような幸福は、心の閉塞でしかないのではないだろうか。

生存競争に対する嫌悪

 また、ヒルティの幸福論では、そこかしこにおいて、適者生存の原理に対する嫌悪の感情がみられる。その合理的世界観のもとでは、利己主義は肯定される。しかし、ヒルティに100年以上遡るアダム・スミスは、人々の利己心を軸として、経済法則(自然的秩序)によって、最適の資源配分と最大の福祉が実現される可能性を説いている。
 自然淘汰説は、資本主義経済を駆動させる上での基本原理とも言い得るものであろう。効率的な市場を通じ、各主体が自らの「効用」を高めるよう自由に行動することによって、経済はダイナミズムを確保し、経済成長は達成される。そうした中で、力を持たない主体は、市場から淘汰され、長期的に生き残っていくことができないとしても、それはさらなる改善のための一事に過ぎない。しかし、社会全体の活力が高まり、経済が成長するのであれば、一人ひとりの幸福が高まる可能性も大きなものとなる。一方、一人ひとりがあくまで自らの枠を超えることなく、日々の仕事を行い、信仰による幸福の実現に固執するのであれば、社会全体の活力の喪失によって、ゼロ・サム的な幸福への渇望をもたらす可能性もあるのだ。
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 幸福と自由とは不可分であり、またそれは、不幸になる可能性があって始めて実現されるものでもあろう。しかし、その意味は、同様のことを語るヒルティのその意図は異なるものであるように思えてならない。