備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

「自由」と「強制」に関する論点−所得再分配を素材として

 以下は、F・ハイエク「自由の条件[3] 福祉国家における自由」より。(なお、本書についての詳しい紹介は、また後日。)

 社会保障制度がいたるところで直面している困難は、繰り返される「社会保障の危機」論の原因となっているが、それは貧困の救済のために設計された制度が所得再分配の一手段、といっても実際にはそのときどきの決断にまかされ実際に存在していないある社会的正義の原理に基づくと想定される再分配の一手段に変じてしまったという事実の結果なのである。自分自身のために備えることのできない者全員にある均一の最低限の世話をすることさえ、ある程度の所得再分配を伴うことはもちろん確かである。しかし、普通に機能している市場における収入で自分を養うことのできないすべての者に係る最低限の世話をすることと、いっさいのそれより重要な職業における「公正な」報酬を目的とする再分配のあいだ−−自分の生計を立てている大多数の人たちが立てることのできない人たちに与えることに同意する再分配と、多数者が少数者から彼らの方が富裕であるという理由で取りあげる再分配のあいだ−−には、非常に大きな相違がある。前者は、個人に関係しない調整方法を保持するもので、その場合には人々は職業を選択する自由がある。後者は、人々が何をなすべきかを当局から命ぜられる制度へ我々を近づけていくことになる。

 ここで論じられている話の本筋は、経済の効率性と自由との接点に関係している。効率的な市場経済の下では、個人(あるいは経済主体)が自由に(利己的に)行動する結果、資源の最適な配分が実現され、経済は高いパフォーマンスを実現することができる。しかし、例えば、ある種の職業Aに従事する者から別の職業Bに従事する者への所得の移転は、職業Bにつく者を最適配分における状況以上に拡大させる。このように、効率的な市場経済の下での個人の自由な行動が、国家の所得再分配政策の下では変化する。明示的な表現がないので断言はできないが、ハイエクは、この行動の「歪み」を国家による「強制」とみなしているのではないかと思う。(たぶん)
 これに加えて、「公正」水準の不確定性に関する論点がある。*1公正なる言葉は、政治的な(主観的)言説において始めて可能になる概念であり、客観的にその概念に適合する水準を定めることは不可能である。*2とはいえ、公正をめぐる政治的言説に反論することは、「政治的な正しさ」を持たないため、ある種の社会的立場に立つ人間にとってリスクが大きい。その結果、所得再分配の程度は、民主主義の下で、次第に過大なものとなりがちである。*3

自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

自由の条件3 ハイエク全集 1-7 新版

 いずれの論点も、国家的・政治的に構成された社会の制度(構成物)によって個人の行動が「強制」され、「自由」が損なわれる可能性が指摘されている。ただし、ここでいう「強制」「自由」が、一般的なその概念と異なる可能性があり、「強制」「自由」という概念を再度吟味することが必要となるだろう。

 後者の公正をめぐる論点に関しては、岡澤憲芙・連合総研編「福祉ガバナンス宣言」における、駒村康平氏の指摘も参考になる。(リンク先の、ベーシック・インカムに関する部分を参照。)

福祉ガバナンス宣言―市場と国家を超えて

福祉ガバナンス宣言―市場と国家を超えて

*1:この点に関しては、前者の「最低限の世話」に係る水準にも同様の問題があろう。例えば、岩田正実「現代の貧困」における貧困の境界設定に関する議論を参照。

*2:唯一、それを可能にするのは、(意に反するが)効率的市場における取引であろう。

*3:現在、新自由主義的といわれる各種の政策の実現には、(その政策実現の是非は別として)1990年代の特殊な経済情勢が関係している。経済が回復過程にある今日現在では、再び、逆向きの変化が生じつつある。