ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

大屋雄裕「自由とは何か−監視社会と「個人」の消滅」(1)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

はじめに

第1章 規則と自由

  • 民法では、十分な行為能力を持たない者は保護の対象とされ、契約の世界から除外される。契約の世界では、「個人」が意志を持ち、その意志の結果である契約を守り、契約に拘束されることができるという状態が維持される。
  • ロックは、人々が(所有権を含む)生得の自然権を持ち、平等かつ独立な状態で平和に暮らす状態(自然状態)から出発し、その不便を解消するため、社会契約を結んで国家を設立する、という擬制を用いた。これに対し、ノージックによれば、自らと自主的に契約を結んだメンバーだけを保護する支配的保護会社=超最小国家を出発点とし、独立人の存在がもたらす不都合を解消するため、独立人も保護の対象とする最小国家が誕生する。アナルコ・キャピタリズムの考える無政府市場は、国家の機能的等価物を生み出す一方、その等価物は再分配を行わない。(共同体の危険性)
  • ミルは、多数者の専政から個人を守るため、国家・社会が個人の意志決定に介入できる限界として、他者に危害が及ぶのを防ぐこと(他者危害原理:この原理では、逆に言えば、当事者の同意があれば不道徳行為も許される)をおいた。
  • シュティルナーは、個人は、あらゆる属性と無縁に、それ自体として完全・唯一・独自のものであるが、市場では、交換のため、それが一般的な概念を用いて描写される。こうした一般化を拒絶し、それぞれの個人を唯一者として扱うべきとした。しかし、シュティルナーにとって、昨日の私と今日の私を同じものとみることも一般化に当たる。このため、昨日の私の行為に対して、今日の私の責任を問うことができなくなる。
  • アイザイア・バーリンは、積極的自由と消極的自由という2つの概念を対比させ、一定の留保の下で、消極的自由の優位を主張。積極的自由は、政治的決定を通じて、自己決定・自己支配を貫徹することを意図する。井上達夫は、消極的自由のみを純粋に守ることはできず、一定の積極的支援が必要であることを指摘(紙とインクがない下での「出版の自由」?)。単独では暴走する危険を秘めた市場・国家・共同体が、相互に抑制しつつ併存する必要性を説く(資本主義的専制の問題など)。アレントは、バーリンと同様、全体主義を問題としながら、「活動」による高次の自己実現を本質的な自己実現と位置づける。

第2章 監視と自由

  • オスカー・ギャンディは、収集されたデータによって人間集団が様々な消費者類型へと分類され、それぞれの経済的価値に応じた扱いが効率的に割り当てられ、不平等が生産されていく過程を、「パノプティコン的分類」とよんだ。監視社会の最大の問題は、剥き出しの人間が相手とされず、個人が情報の集積へと還元されてしまうこと。
  • レッシグは、我々を規制する手段として、法、市場、社会規範、アーキテクチャという4つのモードがあることを分析。法や規範では、規制手段への意識があるのに対し、アーキテクチャは、意識を必要としない。(アーキテクチャによる規制のひとつである)監視システムは、我々に無実であることを証明する義務を負わせる。(法や規範による)事後規制は、我々に正当化の可能性を開き、自由は確保されるが、最初の犠牲者を止めることができない。
  • アーキテクチャは、我々の自由を奪うことになるが、それによって守られるのは、我々自身の安全であり、それが可能にする将来の自由である。監視の背後には、人々を幸福にしたいという(設計者の)信念や善意がある。

第3章 責任と自由

  • 中世刑法は、干渉性、恣意性、身分性、過酷性という特徴を持つ。これに対し、刑罰の人道化と罪刑法定主義が唱えられ、古典派刑法学が確立。罪刑法定主義の背景にあるのは、合理主義的な一般予防の観念(心理強制説)。さらに、19世紀末以降、古典派刑法学の前提である自律的な個人の存在に対する疑いが生じ、罪を犯す個人を生み出す社会的背景に目を向ける近代派刑法学が生まれる。近代派刑法学では、罪刑は教育の意義を持ち、その一方で、改善不能な状態犯人は隔離される。
  • アーキテクチャによって「正しいこと」が自動的に強制される社会では、新しい創造はあり得ない。逸脱が新しい創造となるには、その逸脱が社会に承認され、反復されることによって制度化される必要がある。
  • 「法人が存在する」と想定するときに、法人の行為は生まれる。これは「想定することによって行為を生み出す」という手段・目的の関係ではなく、「行為を見ることによって主体の存在を想定する」という生成的な関係である。これと同様に、「自由な個人」だから帰結の責任を負わねばならないのではなく、責任を負うときに・そのことによって私は「自由な個人」になる。