備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

山中優「ハイエクの政治思想 市場秩序にひそむ人間の苦境」

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境

ハイエクの政治思想―市場秩序にひそむ人間の苦境

 第3章までは、とても興味深く読み、第4章の後半以降は、違和感を持ちつつ読んだ。ハイエクの自由論を、義務論と帰結主義の併用という視点からみる第2章、ヴァンバーグのハイエク批判を取り上げる第3章など、前半は各章に読み応えがあり、勉強になる。後半は、特に終章の日本に当てはめた議論はステロタイプであるが、実証に耐え得る議論とは思われない。(近年の日本についての自分の見方は、「日本版ニュー・エコノミー論と格差問題」(サイドの「リンク集」を参照)に書いた通り。)
 以下、各章の大要。


序章 なぜ今ハイエクか?

第1章 全体主義批判 ”市場さもなくば隷従”

  • ハイエクはいわゆる「中道」路線を否定し、いわば”市場さもなくば隷従”という厳しい二者択一を読者に突きつけ、自由市場の政治経済体制の選択を人々に迫る。しかしながら、全体主義出現についてのハイエクの議論(経済の計画化に、それを求める)は、いささか正確性を欠く。

第2章 自由論 義務論と帰結主義の間で

  • ハイエク社会主義を論駁するにあたって重視したのがサン・シモン主義。サン・シモン主義では、私的所有権を廃止し、一国の経済活動をあたかも単一の工場を経営するかのように、中央集権的に運用しようとする。
  • ハイエクの自由論の最大の特徴は、無知の承認による自由の擁護。分散的知識の活用を促す選択の自由は、一方で、個人に厳しい自己責任を負わせる。具体的目的の如何に関わらず、広く妥当する行為ルールを、ハイエクは「目的独立的」とよぶ。市場は、その「盲目性」ゆえに公平である。
  • クカサスは、義務論者としてのハイエクを描き出すのに対し、R・クレイは、ハイエク社会主義に対する自由主義の優位性を示そうとする際、形而上学的価値に訴えず、社会主義は事実に関して誤りを犯していることを一貫して主張しているとし、ハイエクの自由論を、帰結主義的文脈の中で理解する。
  • 選択の自由は、各人に快楽を与えるものであるというよりも、むしろ重荷を課す。だからハイエクは、物質的な効用の直接的享受というよりは、自らの目的実現を目指す自由競争の過程で払われる努力に価値を認める義務論的主張を、帰結主義を補強するものとして援用する必要があった。さもなくば、自由社会は、社会全体としての柔軟な適応性を維持することができない。

第3章 文化的進化論と議会制改革論 市場秩序を脅かす反市場的な自然感情

  • 政治権力のコントロールを受けない自生的な市場秩序の出現を説くハイエクの進化論を、V・ヴァンバーグは批判。ハイエクの方法論的個人主義は、他者と無関係に、自己の関心を合理的に追求する原子的な個人(経済人)を想定するものではなく、諸個人は他者との関わりを持つ。しかし、方法論的個人主義による自生的秩序の形成は、「協力問題」の場合は可能であるが、「囚人のジレンマ問題」「ただ乗り問題」では、一定の限られた条件を満たす場合を除けば、原理上、期待することができない。
  • ハイエクは、集団淘汰論(集団内部の構成員にとっては自己犠牲的行動を強いられるが、集団全体としての優位性を理由として、ある適切なルールが、集団内部で自ずから守られる)を持ち出す。しかし、ただ乗りへの誘因が存在する以上、集団全体としての優位性を理由に、諸個人に不利なルールを自発的に守るようになるということを、自明のこととして想定することはできない。
  • 人間の無知を強調するハイエクにとって、ルールのもたらす社会全体の効率性を、個人が前もって認識することはあり得ない。ルールを遵守する動機(タブーとしての宗教・道徳)と、ルールが実際に果たす機能を峻別すべきと主張する中で、ハイエクは、市場秩序の”意図せざる結果”としての出現、の意味内容を変化させる。「人間は賢明になったが故に新たな行為ルールを採用したのではな」く、「新たな行為ルールに従うことによって賢明になった」。

第4章 自生的秩序と政治権力 その現代的含意

  • ハイエクの「自生的」という言葉は、必ずしも、政治権力の働きを一切否定し世界大での自由放任主義を意味するような単純なものではない。人間本性の市場秩序への適合性についての、(1)強い適合説、(2)弱い適合説、(3)弱い不適合説、(4)強い不適合説、の4つの立場において、ハイエクは、比較的楽観的な(2)から、より悲観的な(3)に変遷。
  • 村上泰亮の開発主義、「雁行形態」による世界経済の発展の重要性(略)。

終章 市場原理復権の理想と現実 とくに日本の場合