ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介「幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について」

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

「フィールグッド」をめぐる議論

 社会システム論者であり、設計主義的な考えを持つ宮台真司氏と、それにややリベラルな立場から対抗する鈴木・堀内氏との鼎談。緻密な論理と華麗な用語を駆使する宮台氏の発言は、その「地頭の良さ」を感じさせるが、それに裏打ちされたところのエリート主義的発言の感じ方は、まあ人それぞれかも知れない。
 この鼎談においてキーワードとなるのは、「過剰流動性」「不安のポピュリズム」「フィールグッド・ステイト」などである。これらの重要性に関し、3者は一定の合意をしているが、その認識の仕方には、それぞれの立ち位置から生じる相違点がみえてくる。
 宮台氏は、「過剰流動性」が進み、人々が不安に陥ると、政治において「不安のポピュリズム」が大きな成果を上げ、都市の浮動票を中心に、(例えば、ナショナリズムの方向へと)人々が動員されやすくなる。この問題に対抗する上で、宮台氏は、全体性を観察してソーシャル・デザインをすることの重要性を指摘し、1980年代の臨教審において議論となった「上から多様なものを強制する」ことの必要性を説く。*1その上で、対処すべき、生じ得る困難を、次のように整理する。

 第一に、必ずしも民衆の声によってデモクラティックに肯定されないソーシャル・デザインを、民衆にどう受け入れてもらうのかというテクネー(技能)の問題。先に申し上げた「失敗の研究」は、主にこの部分に関わっていたということができます。
 そして第二に、必ずしも民衆の声によってデモクラティックに肯定されない「民衆を幸福にするためのプログラム」*2――長期的な未来を見据えた教育プログラムが典型です――が、いったいどう正統化ないし正当化されるのか。こちらこそ学問的な大問題です。

 「過剰流動性」という言葉から最初に受けた印象は、平成不況期以降にみられるようになった不安定就業者の増加や、雇用流動化を志向する雇用管理制度など、主に経済の文脈で語られる事象のことであった。しかし、ここで語られているのは、教育を通じた社会階層移動のダイナミズムなど、社会学的な文脈で語られる事象をも含んでいる。社会を包む多くの事象に関して、過剰流動性を認識するというのが、本書に一貫する姿勢である。(近年話題にのぼる「大学院全入時代」のような話も、その範疇の中に捉えられるだろう。)
 なぜ、過剰流動性は生じるのか。それは、(欧州の階級社会がもつような)ソーシャル・デザインを行うエリート、あるいは設計されたフィールグッド・ステイトを「正統化」する機構が、日本に存在しないためである。どんな社会でも、その境界設定に恣意性をともなう以上、その恣意性を正統化することが必要である。さもなくば、相対化を無限後退的に続けるよう強いられることになるだろう。
 教育課程を上り詰めた「田吾作」的エリートではない真のエリートを創出するには、それを可能にするために、(ハビトゥスのような)「入れ替え不能なりソース」に支えられた自立を可能にすること、その承認のための機構を、「生活世界」の中に創出することが必要である。一方、エリートと相対化される民衆には、感情を支えるための「帰る場所」が必要だという。
 これに対して、堀内氏は、次のように反論する。

 「多様なものの強制」という主張も、よく考えると、”何のために”という部分が不明確です。つまり、もし統治形態自体の多様化が最終的に目指されているなら、試行錯誤のきっかけとして「多様なものの強制」をするのも、現状をふまえた論理的帰結としてならば肯けなくもない。しかし、エリートの専制を自発的に承認する”民度の高い”市民を生み出すことが眼目なら、「多様なものの強制」は結局、情報操作による動員の手間とコストを省くためだけのたんなる強制/矯正ということになる。

 議論は、その後も、ルール、設計、そして最後には帰責の問題も含め、「フィールグッド」の周囲をめぐり、繰り返される。

「フィールグッド」へのアンビバレンスと「幸福の国」の逸話

 本書は、「幸福とは何か」を問うものではなく、「幸福の設計はいかにして可能か」を問うことを目的とするとしている(「序」にかえて)。しかし、堀内氏は、その問いはややもすると、「いかにして幸福だと思わせるか」という制御の学へと横滑りするように思えるという。
 ここで言われる「フィールグッド」とは、人々が幸福に生きられるような、アーキテクチャレッシグ)によるコントロールを意味する。それは、不可視の力として行使され、選択の手間を与えない。そこでは、設計の恣意性が無限後退的に問われる「再帰性」の問題が、巧妙に避けられている。感情的動員の制御不能な暴走を、それによって、あらかじめ防ぐことが可能になるのだ。

 話をいったんここで置く。この「フィールグッド」をめぐる議論を読んで自分が考えるのは、次のような「幸福の国」の逸話である。
 この国では、国民の幸福度という主観指標が重視され、9割ほどの人間が日々の生活に幸福を感じている。しかし、一方で、情報が統制され、自分の国が周りの国と比較してどれほど豊かであるのかが不可視である。この国が、民主制を導入し、経済が自由化され、情報の規制が緩和されたとき、失業が生じ、犯罪は急速に増加し、幸福度は急速に低下することになる。しかし、これまでほとんど変化のなかった経済成長率は、その後急速に拡大することになる。
 この国の国民の不幸は、癌の告知を受けた患者の不幸に似ている。「知らぬが仏」は幸福であるが、それは、一部のエリートによって構築された社会のルールに従い生きることに等しい。また、その幸福は、一方で、別の何か(この場合は経済成長率)を犠牲にしているのである。

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 個人的には、ここでされているような議論の抽象性には、正直なところついて行けない、というのも事実。例えば、最適金融政策運営によるマクロ経済の安定が、ソーシャル・デザインの範疇にはいるのなら、その意義には一定の賛同をすることになる。しかし日本の現実をみると、その運営が、別の利害に基づいてなされている面もあるようにみえる。だとすると、現実的には、批判的な公衆の存在が必要であり、極端な「フィールグッド」化には反対せざるを得ないようにも思える。

*1:この「上から多様なものを強制する」という言葉には、山田昌弘氏の指摘する「リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出」す、という言葉との親和性が感じられる。

*2:フィールグッド・ステイトの設計。