備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

松嶋敦茂「功利主義は生き残るか 経済倫理学の構築に向けて」(1)

功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて

功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて

序章 功利主義は経済倫理学の原理となりうるか?

  • 現代経済思想の2つの潮流−(1)モラルサイエンスとしての経済学(広義の経済学、スミス、ミル、マーシャル・エッジワース、ケインズ・ハロッド)、(2)実証科学の1部門としての経済学(理論経済学・純粋経済学、リカードワルラス、パレート、ロビンズ)。
  • 功利主義に関する共通の特徴(略)。シジウィックによる功利主義の定義(略)。「最大幸福」を実現する基準となる社会的効用の集計に際しては、(1)諸個人の効用の可測性と、(2)諸個人の効用の個人間の比較の可能性、の2つの条件を満たすことが必要。
  • ロールズは、功利主義について、(1)個人的合理性の原理を社会的合理性の原理と同一視し、(2)個人を「目的」としてでなく、社会的効用最大化の「手段」としてのみ捉え、よって個人は真の個体性を持たないことになることを批判。ハロッドの「粗野な」功利主義=行為功利主義批判と、ハルシャーニによる規則功利主義の定式化(略)。

第1章 「極大満足説」と功利主義の間 ゴッセン、ワルラス、エッジワース

  • ゴッセンは、物々交換モデルに基づき、交換によって、交換を何ら行わなかったときに比べて、よくも悪くもならないという条件の下で、個人Aまたは個人Bが極大満足を達成するような2つの極大点の間では、全ての位置が最終的な均衡になり得るとするが、そこから契約曲線の定式化に進まず、(1)社会的厚生の極大化のための条件を求め、(2)その条件は自由競争市場システムの完全な展開によって保障されることを主張。
  • ワルラス均衡の定式化(略)。ゴッセン均衡の契約曲線上の位置は、(ワルラス均衡のように)予算制約式によって決まらず、国家の権威を通じ、2商品を2個人間に、全商品の全個人に対する限界効用が交換後に全て等しくなるよう分配することによってのみ成立する。
  • エッジワースによれは、契約曲線状のいかなる点に市場均衡が定まるかは、諸個人間に利害対立があるため、完全競争の場合を除けば不確定であり、それを確定するためには、何らかの「仲裁」がなされなければならない。その基礎を与える有力な原理が功利主義(集計的最大総効用の原理)。契約論的功利主義では、合理的経済主体は、自己の効用を「不確実性」の中で極大化しようとするとき、その目的実現の障害となる他人との利害衝突の「仲裁の原理」として、功利主義的原理を選ぶことに導かれる。

第2章 ベンサム主義的功利主義自由主義功利主義 功利主義と課税原則の結合関係

  • 課税の原理をめぐる、ミル、エッジワース、ヴィクセルの緒論。ミル、シジウィックの累進課税批判(略)。エッジワースの最小犠牲原則(略)。比例課税を論じるミルは、機会の平等の観点から、遺贈の制限等を提唱するが、いったんその条件が整えば、市場競争の結果に対する国家の干渉を否定する。エッジワースは、功利主義の観点から、より前者(機会の平等)に力点を置く。
  • ヴィクセルは、課税の原理として(応能説ではなく)利益説をとる(富裕階級の利他的利害関心を重視)。応能説では、人々の主観的価値評価の相互比較を必要とし、また租税の総額の大きさを決定し得ないことを批判。課税承認における(相対的)一致と自発的原則(略)。

第3章 効用の個人間比較の可能性 肯定論と否定論を分つもの

  • 効用比較論の3つの基本的類型−(1)否定論、(2)肯定論、(3)制限的肯定論。マーシャル、エッジワースは、自由主義的競争経済を維持しつつ、分配的正義への渇望を部分的にでも満足させるため、(2)の効用比較論を必要とした。ヴィクセルは、国家財政肥大化の懸念から、政府の恣意的基準による効用比較を批判し、(3)の効用比較論を導いた。
  • ロビンズは、選好順序は序数的なもので、異なる2つの選好順序の背後に、それ自身比較されうる大きさがあると想定することはできない、「同様の環境下にある人間は同等の満足を得ることができる」というのは、人間性にとって普遍的な事実ではなく、効用比較は、本質的に規範的なもので純粋科学ではないとした。
  • M・D・リトルやハルシャーニによるロビンズ批判。ハルシャーニによれば、我々の間には大きな「類似性」がある。この仮定の上に、彼我の内にある客観的差異の認識を斟酌することによって、我々は他人の効用の正しい評価に到達する。ロビンズの立場は、自分のみが意識を持った実存的存在であって、他人はロボットであるとみなす立場に帰着する。