フリードリヒ・A・ハイエク「法と立法と自由[1] ルールと秩序」(3)
- 作者: ハイエク,西山千明,Friedrich August von Hayek,矢島鈞次,水吉俊彦
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2007/12
- メディア: 単行本
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文化に先行する一般ルール
本書では、法というものについて、何らかの権威によって立法された組織のルールよりも、それを守ることによって「発見」される一般ルール(正しい行動ルール)の優位性を説く。この一般ルールは、特定の具体的な目的に資するものではないという意味で「目的独立的」であり、文明の始まりに先行し、革命や征服によっても失われることはない。自然(コスモス)の外部に立つ人間精神を想定するデカルト的二元論は誤りであるとし、真相は、自然・環境への適応の過程として、秩序は自生的に成立したとみる。
具体的な目的を追求する「設計主義的合理主義」に対する批判は、人間の理性の限界という認識から来ている。社会の中の特定事実について、我々は救いようのないほど無知である。社会の構成員に偏在する資源を効率的に働かせるには、構成員に知られている特定事項から確度の高い期待を引き出すことで、不確実性を低下させることが重要である。
ハイエクの矛盾
こうした認識には批判があることは、山中優「ハイエクの政治思想」に取り上げられている。
ハイエクの方法論的個人主義は、他者と無関係に自己の関心を合理的に追求する原子的な個人(経済人)を想定するものではなく、諸個人は他者との関わりを持つ。しかし、方法論的個人主義による自生的秩序の形成は、「協力問題」の場合は可能であるが、「囚人のジレンマ問題」「ただ乗り問題」では、一定の限られた条件を満たす場合を除けば、原理上期待することができない。
また、ハイエクの主張には、松嶋敦茂「功利主義は生き残るか」にあるように、保守主義者ではないとする一方で、「改良」の原理・合理的根拠は示され得ないというディレンマがある。一般ルールを重視する上記の主張に従えば、「改良」の必要を過度に強調することの妥当性がみえてこない。
例えば、先日のエントリーで指摘したように、『日本的な長期雇用システム、労働者の入離職が頻繁に生じるシリコンバレー型の雇用システムは、そのいずれもが「均衡」となり得るモデル』であるが、これらの一般ルールを「改良」することの根拠をハイエクの文脈から導くことはできるのであろうか。(無論、自分は否定的である。)