ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

J・M・ケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論 上」(3)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈上〉 (岩波文庫)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈上〉 (岩波文庫)

驚嘆の書

 ケインズ「一般理論」は、個々の経済主体の行動に関するものでなく、主として一国経済についてアグリゲートされた集計量の間の関係を論じるものであり、マクロ経済学はここに始まるといっても過言ではない。現代のマクロ経済学の大きな要素が、この一般理論から受け継がれているのである。
 一般理論では、「古典派経済学」が批判される。ここにいわれる「古典派経済学」は、(クルーグマンこの論説でも指摘されているように)今の言葉でいう「新古典派」とはいささか異なる。ケインズが批判の矛先においたのは、総需要と総供給があらゆる雇用量において均衡し、供給それ自身が需要をつくり出す(セイ法則)世界を論じる経済学である。この意味での「古典派経済学」は、リカードの理論がよく当てはまるもので、今の「新古典派」と同等に論じることはできない。例えば、「自然失業率仮説」(M・フリードマン等)は、ここにいわれる「古典派経済学」よりもむしろ、一般理論の後裔である。このことは、本書を読めばすぐにわかる。現在では、「新古典派」と「ケインジアン」の間は、程度の違いでしかないだろう。

(追記)M・フリードマンは、この論文において、以下のように記述している。

Some years ago, I remarked to a journalist from Time magazine, “We are all Keynesians now; no one is any longer a Keynesian.” In regrettable journalist fashion, Time quoted the first half of what I still believe to be the truth, omitting the second half. We all use Keynesian terminology; we all use many of the analytical details of the General Theory; we all accept at least a large part of the changed agenda for analysis and research that the General Theory introduced. However, no one accepts the basic substantive conclusions of the book, no one regards its implicit separation of nominal from real magnitudes as possible or desirable, even as an analytical first approximation, or its analytical core as providing a true “general theory.”


 現在の地点からみれば、ごく標準的な理論的帰結であっても、この時代では、新たな理論として論じられたものであることを考えると、その凄さを改めて感じることができる。この時代の標準であった「古典派経済学」は、完全雇用という希にしか起こらない世界に関する理論であり、非自発的失業が常態的に生じている現実の世界に関する理論を構築したものであることを意図して、本書は「一般理論」と名付けられている。その中では、この時代にはまだ生じていなかった「流動性の罠」について論じられ、資本の流動性に関して、現在のリースや証券化のアイデアにつながるような記述もみられる。今だ色あせることなく読み継がれているという事実もよくわかるというものだ。

ケインズをめぐる「ズレた」議論

 ケインズが貨幣数量説を否定し、金融政策がただそれだけで経済体系を管理し得ることに懐疑的であったことなどを根拠に、ケインズの理論は「リフレ政策」を否定するものであるとする見方もあるようであるが、こうした見方は、言葉尻を一面的な解釈の中で捉えているに過ぎない。
 「リフレ政策」は、貨幣量のコントロールだけを政策ツールとすべきとするような主張ではない。加えて、ケインズが期待(予想)の効果を重要視していたことは、本書から十分に読み取れ、その上に、経済主体の期待(予想)の変化を取り込む形での理論の進展がある。こうした理論の進展を踏まえず、一面的な批判を行うような向きには、到底与することはできない。
 繰り返すが、現代のマクロ経済学の大きな要素が、この一般理論から受け継がれている。つまり、上記のような主張は、問いの設定段階からしてズレているのである。(それというまでもないが、貨幣数量説を信奉する日本に特有の「リフレ派」などというものも存在しない。自説と異なる論者を貶めるため、ケインズをアイドル的に利用し、誤った知識を吹聴する「公害」のような存在には留意するべきであろう。)