ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎「モダンのクールダウン 片隅の啓蒙」(2)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

「公共性」の可能性?

 本書は、文化論的な立場から「公共性」の可能性について論じているが、議論が多岐に渡るため、筆者の意図を汲み取るのがなかなか難しい。(恐らく、自分もそれができていない。)まず、この「公共性」に対峙する概念とされるのが、閉じた「共同性」であり「お約束」といわれるものだ。そして、この「共同性」「お約束」からの開放を目指したのが近代のリアリズムである。近代文学では、特権化された作者が現実を素材として物語を作るが、その「現実」とは、現にあるこの環境だけを意味するものではなく、作者と受け手が共有する現実についてのイメージ(無数のリアリズム文学の作品世界の集合、《現実世界》)である。しかし、その《現実世界》もまた、ローカルな「共同性」に過ぎないのかも知れない。モダニズムの前衛文学がのり越えようとしたのも、《現実世界》の拘束である。近代の人間は、自らの「常識」が「お約束」に過ぎない可能性についての病識がない。「常識」が常識であるとは限らないことを指摘する他者を排除し、監禁するのが近代の特徴である。
 「公共性」なるものは見出し難く、その可能性には留保が付きそうであるが、ではそもそも、なぜ「公共性」についてあえて考える必要があるのだろう。この点は、筆者の大衆社会論批判に少し垣間見られる気がする。最初の冒頭でニーチェオルテガ大衆社会論が批判され、最終章では、宮台真司のエリート主義的な議論への疑義が呈せられる。現代において、「エリート−大衆」の図式はリアリティを失っており、エリートも所詮「精神なき専門人」であり、狭い専門の世界に生きる別種の「大衆」人に過ぎない。
 ここで、近年よく指摘されがちなアーキテクチャ型の規制*1の概念に似た「テーマパーク的権力」という言葉・概念を考える必要がでてくる。この権力は、エリートが大衆を効率的に「動員」する道具となるものであるが、しかしながらこの権力は、近代における「規律訓練」型の権力と異なり、それと気付かれずコミュニケーションの主題ともならないようなレヴェルにおいて作動する。しかも、テーマパークでは、人々はそこに積極的に集まり幸福を享受するのである。問題は、こうした「テーマパーク的権力」を設計するエリートが、そこで幸福を享受する大衆人とほとんど変わらないように見えることだ。(《現実世界》ならぬ)実在する現実世界の一部として既成事実化される「テーマパーク」に住まうことの危険がここにある。「無知の知」を体現した常識ある「庶民」として、エリート大衆人の意図する「動員」を逃れ、それに対峙し、真に「自由」な立場に立つことが必要となる。
 

「内なる外部」

 最後の二章で、東浩紀の「存在論脱構築/郵便的脱構築」、永井均の「解釈学的/系譜学的/考古学的」などの概念を敷衍しつつたどり着くのは、「内なる外部」という概念である。一方の極に強制収容所を、他方の極にテーマパークを置いたポストモダン状況における収容型施設には、ある程度はそこに「内なる外部」の余地ができるのではないか。それは、究極的に個別化され、他者から、世界から隔離された「個室」なのかも知れないが、動物化した人々が消費するべき「娯楽」は、誰かが作り手となってそこに送り出さなければならない。
 そして、最後に、ポストモダン状況における近代の可能性について、きちんと考えていきたいという形で筆者の立場が総括される。ただしそれは、万人に夢を与えた「近代主義」とは異なり、その夢をクールダウンした上で継承していく─。「文化」論的な議論から「政治哲学」的な議論へと転回された形で、新著では、「公共性」を正面から主題化していくとしている。