ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

安富歩「生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

道具主義」としての現代経済学

 韓リフ先生やecon-economeさんが取り上げているので読んでみたまでで、そうでなければ、恐らく、手に取ることもなかったであろう本である。内容は、econ-economeさんが簡潔・丁寧にまとめている。

 自分自身は、もっと低いレヴェル、次元において「道具主義」的に経済学をみている(かも知れない)。政策決定過程において、科学的な視点から貴重な示唆を与えるのが経済学という「武器」である。また、経済学が持つ一般的な「尺度」は、国内総生産であって、高い経済成長を遂げることが大事──という見方もある(し、そうした見方にも一理はある)が、その可能性は、マクロ経済だけに止まるものではない。
 とはいっても、このレヴェルでは、経済学を道具ないし武器であるとみていることに換わりはない。このように道具ないし武器として経済学を利用することは、逆説的ではあるが、経済学に対する「不遜」な態度であるともいえる。反面、「反経済学」的な見方は、経済学に対する強いこだわりの裏返しなのかも知れない。経済学は、人間に対するある種の規範であるべきにも拘わらず、残念ながら、その学問はその水準に至っていない──こうした認識が、結果として、人間が「反経済学」という闇に陥ることにつながる。
 現代経済学を「錬金術」と位置づける第1章の記述をみたとき、「ああ、また始まったか」という印象を持ち、その先にまで読み進めることはなかったかも知れない。しかし、本書の読み所はむしろ第2章以降にある。

選択の自由/自由の牢獄

 本書のターゲットは、生きるための経済学──ビオフィリア・エコノミクスとは何かを論じることにある。現代経済学では、実行可能な選択肢の中から、自らの効用を最大化する消費パターンを選択する合理的経済人を主体としている。合理的経済人は、予算制約条件を満たす限り、市場が提供する無数の商品から自由に選択することができ、他の主体がその決定を強制することはない。この意味で、合理的経済人は自由な選択が可能な主体であって、この「選択の自由」こそが、現代経済学の持つ魅力の大きな源泉である。
 しかし、「選択の自由」の下で、人間は本当に自由であるといえるのか──ここで、M・エンデの「自由の牢獄」という逸話が語られる。その主人公の男は、「人間には自由な意志があり、おのれの裁量で、あくまでもおのれの中から善や悪を生み出す」と信じていたが、ある建物に閉じこめられ、ある扉の向こうには血に飢えたライオン、ある扉の向こうには限りない愛の歓喜を与えんとする妖精で一杯の花園、という状況で、結果的にどの扉をも選択することができず、最後にはそこに残ることを選択する。最初に百十一あった扉は次第に減り、最終的に扉は一つもなくなるのだが、「自由意志」を失い、神の御意に沿うことをその男は喜ぶのである。
 「選択の自由」もまた「自由の牢獄」であると著者はいう。市場経済が提供する選択肢は文字通り「無数」であり、合理的経済人は、物理的な制約から最適な選択をすることができない。さらに世の中は「非線形性」に満ちており、ある選択が思いどおりの結果になるとは限らない。つまり、「選択の自由」とはまやかしの自由であって、それは、全てが神によって決定される予定説的な世界に容易に移行してしまうこともなりかねない代物なのだ。
 このように「選択の自由」は、現実には、幻想の自由、まやかしの自由であるのだが、「自己欺瞞」という概念によってその欺瞞性は明らかとなる。言うまでもないが、自由な選択には、その結果に対する責任がともなう。しかし、H・フィンガレットによれば、日常的な細々した選択はほとんど慣習的に行われるのに対し、まれに必要となる重大な選択は、あれこれ計算してなされるのではなく、既に決心ができている自分に気付くという「受け身」の姿勢をとる。こうなると、「自分ではそのつもりがなかったのに、そうなってしまった」という責任逃れを許すことになる。これが「自己欺瞞」という問題である。
 また、E・フロムによれば、近代人は、自分の利益のために動いていると信じながら、実際には自分のものではない目的のために働いている。「社会的自我」について、フロムは、「本質的に個人が演じるように期待されている役割によって構成され、実際には、社会の中でその人の果たす客観的な社会的機能の、主観的偽装にすぎない、そのような自我」であるという。通説では「選択の自由」を真の自由をみるのに対し、フロムは、それは偽装された自由に過ぎず、実際には「社会的自我」によって自由が奪われているというのである。
 合理的経済人は、自らの効用を最大化するよう自由に選択しているようにみえるが、その効用関数は、それ以前に(外部から*1)与えられている。とすれば、人間とは、「選択の自由」に直面し情報を処理するだけの「自動人形」なのかも知れない。

共同体/市場

 このように、著者は「選択の自由」の欺瞞性を指摘するが、同時に、「共同体」という必然の支配する世界を肯定するわけでもない。「選択の自由」という偽装された自由は、必然/選択という(偽の)対立軸を構成する。これはまた、共同体/市場という対立軸にも焼き直すことができ、市場を支配するのが「選択の自由」という原理であるとみることができる。西欧の文脈では、自由は第一義的に共同体的制約からの自由であり、紐帯といえば、共同体的紐帯である。共同体に所属しないという意味での自由は、同時に人間にアイデンティティの喪失という不安をもたらすとされる。
 ここで再びE・フロムを紐解くことになる。個人が共同体に全面的に結びつけられている状態で感じる帰属意識(「第一次的絆」)、自然の代替物であるその絆から離脱することで、人間は自由な「近代人」となる。これは、「〜からの自由」という消極的自由である。人間は、この消極的自由がもたらす孤独感を堪えきれず、偽装的な「第二次的絆」を求める衝動に駆られる。しかし、その衝動こそがファシズムの温床であった。このような心性から逃れるため、人間は「〜への自由」という積極的自由を獲得せねばならないとする。*2
 著者によれば、フロムもまた同じステレオタイプの誤り、すなわち、「共同体からの離脱による不安」という幻想に捕らわれているという。しかしその一方で、「統合された全人格の自発的活動」としての積極的自由の中に、新たな秩序を形成する原理をみている。「選択の自由」も「共同体」もともに幻想であり、それらの幻想が自分自身を見失わせ、人間を自己欺瞞へと陥れる。自分自身の感覚に立ち返り、積極的自由という活動の中に、いわば「第三の道」を探し当てるということが、著者の立場を言い当てたものであるように思う。

「ビオ経済学」という欺瞞?

 少々長くなってしまったので、そろそろ整理したい。本書がターゲットとするビオフィリア・エコノミクスについての説明をみることにしよう。

 真にこの牢獄から抜け出すには、私たちは自らの身体の持つ「創発」する力を信じる必要がある。この力は生命の持つ、生きるためのダイナミクスでもある。このダイナミクスを信じ、そのままに生き、望む方向にそれを展開させ、成長させるとき、人間は積極的な意味で「自由」たりうる。(中略)
 自分自身の感覚という、世界を生きるための羅針盤を破壊されると、人は不安になる。そしてまた、考えているとおりの姿ではない自分に嫌悪感を抱く。この不安と自己嫌悪を覆い隠すべく、人は自己欺瞞に陥るが、それはさらなる乖離を引き起こし、不安を拡大する。

 ここに「自分自身の感覚」という言葉が登場する。確かに、「自由」を獲得し生命感溢れた活動に生きることは、一人の個人としては望むべきものだろう。しかし、同時に一人の個人として自律/自立した活動を行うためには、他者との調和的な関係も必要であろう。

 この調和はもちろん、なごやかなものとは限らない。自由な人の集まりは多様であり、困難にであったときには互いに激しく意見をぶつけ合う。ある種の攻撃性は、人間が生きるために大切なことであり、人生に直接間接の好影響を持つ。悪を感じたときに、怒りを覚え、表現することができなければ、自分の周囲の善を守ることなどできない。そういった激しさをともなう多様性のなかの動的な調和こそ、孔子の「和」にほかならない。
 こうして展開される創発的コミュニケーションを通じて価値が生み出され、それが人々に配分される。このような経済を「ビオフィリア・エコノミー(ビオ経済)」と呼ぶことにしよう。

 これが著者が結論付けるビオフィリア・エコノミクスの内容である。「自分自身の感覚」に忠実に、かつ他者との調和的な活動の下で、自らに対する配分を受け取る──これは、見方によっては、日々の経済活動の現場で行われていることそのものである。しかし、自らへの配分を妥当なものと理由付けるのは、経済学に基づく(欺瞞的な)論理(例えば、成果主義的賃金制度)、あるいは共同体的な配分の原理(例えば、年功的賃金制度)であって、それがなければ、「他者との調和的な関係」を維持することができない、というのが実際のところなのではないか。後付けの欺瞞的な論理によって、日々の経済活動は維持されているともみなせる。多様化し、流動化する価値観の狭間においては、純粋なコミュニケーションだけで、経済システムは維持し切れるものではない。
 人間は、自由を渇望すると同時に、他者との関係の中に生きるものである。自律/自立した人間とは、著者も指摘するように、「多数の他者に依存した状態」であるとみることができる。「自分自身の感覚」に基づく自らの価値というものは、他者との関係の中で、必ずしも共有され得るものではない。だからこそ、市場の論理は重要な意味を持つであり、しかもその論理は、日々の経済活動を通じて自生的な進化を繰り返している。そして総じてみれば、(仮にそれが「道具」的なものであるにしろ、)その論理は適用可能なのである。「自分自身の感覚」を足場として、新しい秩序を求めるのか、あくまで人間の社会的な価値を基礎付ける既存の論理に従い、その漸進的進化を目指していくのかは、それぞれの学問的立場の違いでしかない。その意味では、後者の立場を「ネクロ経済学」と言い切る著者の態度には感心できない。
 さらに付け加えると、共同体/市場という二項対立を超え、「自分自身の感覚」に立ち返るという著者の態度は、個人の唯一性に根拠をおくシュティルナー的な立場にも関連しているように思える。この立場を突き詰めれば、「今日の私は昔日の私ではない」ということにもなり、「自己欺瞞」はその論理の中で肯定されることになる。著者のいうビオフィリア・エコノミクスは、その意味で、「自己欺瞞」の問題圏から未だ逃れ出ていないようにも思えるのだ。つまり、その都度の「自分自身の感覚」に立ち返り、自己に忠実に生きるとしても、現在の自分という唯一者からみればそうとはいえない。結果的に、過去の自分によって現在の自分は「騙されている」ということになるのではないか。著者の苦難の旅路は、残念ながらまだ終わったとは言えないのである。

(追記)
 本書を読む上では、下のエントリーも参照すべきだろう。

 今読み返してみると、本書、ないし私のエントリーを読んでも依然として残る「もやもやしたもの」が、このエントリーで既に言い尽くされているようですね。

*1:広告などを通じて

*2:なお、詳述はしないが、フロムのいう積極的自由とI・バーリンの積極的自由には大きな違いがあることが脚注にて指摘される。