ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ダニエル・C・デネット「自由は進化する」

自由は進化する

自由は進化する

決定論/非決定論

 デネットは両立論、つまり、決定論的な世界と自由意志は両立するという立場をとる。
 決定論とは、『「どの瞬間にも、物理的に可能な未来はたった一つしかない」というテーゼ』である。このような、決定論的な世界観におけるありがちな誤りを、デネットは第2章の冒頭において次のように整理する。

  • 決定論とは、不可避性を意味する。
  • 非決定論(決定論の否定)は、行為者である我々に自由とか、動く余地とか、余裕とか、決定論的な宇宙では決して持てないものを与えてくれる。
  • 決定論的な世界には本当の選択肢はなく、選択肢のようにみえるものがあるだけである。

 世界は決定論的であり、自由は存在しないという議論はさまざまであり、これらは山形浩生氏による訳者解説にも整理されている。例えば、18世紀の物理学者・数学者であるラプラスは、「任意の瞬間における自然界を動かす力をすべて知り、自然界を構成するあらゆる存在の相互位置を知っている知性体」(通称、ラプラスの悪魔)というイメージを導入する。このような知性体にある瞬間のあらゆる素粒子の正確な位置が与えられたとき、厳密に記述された物理法則によって、このような知性体にとって不確実なものは何もなくなる。
 しかし、「物理レベル」では決定論が支配する世界であっても、よりマクロな「設計レベル」では多様なパターンが生まれることもある。そのような例として、デネットコンウェイライフゲームを取り上げる。このゲームでは、一定のルールに従い、オン/オフを永遠に繰り返す二次元のマス目の中に、あるパターンを持って動く「生物もどき」が創り出される。また、このライフ世界には、他のパターンよりも害を避けることがうまく、長生きするパターンが存在する。こうしたパターン(回避体)が存在することをもって、デネットは、決定論的な世界であっても、起こることは、各瞬間に存在する原因の完全な集合から生じる不可避な結果であるとはいえないとみるのである。

決定論と自由意志の両立

 決定論的な世界が不可避性を意味しないとすれば、決定論的な世界であっても絶望に陥る必要はない。では、「決定論が真なら、人は自由意志を持たない」という命題についてはどうか。この非両立論の立場に立つと、決定論的な世界において、行為者はその行為に対する究極的な責任から解放されることになる。一方、リバータリアン(人間が自由意志を持つ以上、決定論は誤りであるとみる立場)と呼ばれる人達は、自由意志について、全か無かどちらかだとみているが、それは道徳的空中浮遊にような状態になくば自由意志を持てないというに等しい。
 ロバート・ケインは、「実践理性機能」が持つ意志を、(1)願望/欲求意志、(2)理性的意志、(3)奮闘意志、の3種類に分類し、(1)を実践理性機能への入力装置、(2)を実践理性機能からの出力装置とする。そして、自由意志に非決定性があるのなら、それは(3)に関わるものでなければならないとみる。(3)の奮闘意志は、両立できない2つの欲望に直面するようなまれに生じる事態に形成され、そういう事態に直面するとき、人はときに自己形成行動(SFA)を行うことを決意する。SFAは実践理性機能の純粋に非決定論的なプロセスの(唯一の)結果であり、ケインによれば、それはAP条件(時間tにおいて、Aを行うことが可能で、かつそれ以外のことも行える)を満たす必要がある。
 しかし、リバータリアンの非決定論は、ビュリダンのロバ(自分から等距離の2ヶ所に食べ物があったので、右に行くか左に行くか決められず、飢え死にしたロバ)のような手詰まりの状況を生む。*1また、ケインの議論は、そもそも必ずしも非決定論を必要とするものではない。決定論と自由意志は両立しないとする議論は、決定論が真なら、自分の行動は自然法則と過去の事象に規定され、それは私には左右できない、よって自分の行動は環境によって完全に確定され自分次第ではないから、(道徳的に重要な意味で)自由ではなく、したがって自分の行動は自由ではない、という経路をたどるのであるが、それは、「哺乳動物の母親は哺乳動物であり、哺乳動物は有限であるから、哺乳動物は存在するはずがない」という誤りと同じ構造を持つ。自分の現在の選択は自分次第だ。何故ならその選択の「親」─最近起こった過去の事象─は「自分次第」であるから。またその選択の「親」も・・・これは無限には続かないが、「わたし」が自分の決定を左右できるだけの時間・空間的な広がりを「自分」に与えられるくらい前にまでさかのぼることはできる。道徳的な自分が存在することは、哺乳動物が存在することと同様に間違いないことであり、それは非両立論の議論では疑問視されることのないものである。

「わたし」とは何か?

 自由意志にとって、意志の弱さは困惑の素となる。意志の弱さは、人間の時間選好がエインズリーのいう双曲線割引である場合、選択の場面が近づくとその選択に逆転を許してしまうという事実によって説明できる。エインズリーによれは、人間はさまざまな動機づけ同士がしのぎを削る「場」となり、(意志決定を行う)実践理性機能は、堅い意志決定力を持つものではない可能性を示唆する。
 また、ベンジャミン・リベットの実験によれば、決意の瞬間として報告される(視覚によって把握された)時間より前に、脳波が発生する。このとき、「わたし」は、視覚中枢と実践理性の間の何処に居るのかをめぐり、いろんな解釈が可能になる。少なくともリベットの実験は、脳の機能─見る、聞く、意志決定、同時性判定等─がすべて一つの場所に集約されるという仮説(デカルト劇場に居る空想上の小人)を排除する。
 「時間t」や「デカルト劇場」へのこだわりを捨て、小人さんの仕事を時間空間双方に分散させ道徳機能も分散させる、という視点で人間や自由意志を捉えるのがデネットの立場である─「あなたはカヤの外じゃない。あなたはカヤそのものなのだ」─。

決定論と責任の所在

 自分の行動を外部化し、責任を逃れたいという誘惑は強い。自分をコントロールできないことで各種の罪が問われない原理と、自分の意志で悪をなす人との敷居はどのようにつけるべきなのか。
 本書の第1章には、次のような事例がある。

 最近新聞で、出勤途中に幼い娘を託児所に預け忘れたという若い父親の話を読んだ。その子は一日中、暑い駐車場で車に閉じこめられたままだった。そしてそのお父さんは帰りに娘を引き取ろうとして「今日はお預かりしてませんけど」と言われた。彼が車に駆け戻ると、その子は後ろの小さな児童シートにしばりつけられたまま死んでいた。

 この父親が駐車場に着いたとき、ふと何かの意識に捕らわれてしまったのか、何か最悪の事態が重なってしまったのかも知れない。人間誰しも、こうした事態に陥らないとは言い切れない。決定論が正しければ、この過程の中に何かを決める時点があるというのは幻想だ。そのとき、果たしてこの父親の責任を問うことはできるのか──。この問いにくだすデネットの答えは次のようなものになる。

 このお父さんは、自分の子供の死に責任を負っていた。おそらくだれにでも壊れる地点がある。自分の壊れる地点にたどりついてしまった人は、壊れるしかない!他の人が全く同じ環境にさらされても壊れないからといって、その人に責任を負わせて処罰するなんて、不公平じゃないか?このお父さんは単に不運の犠牲者じゃないのか?そしてあなたが誘惑に負けなかったり、弱点を何か悪条件の重なりで悪用されなかったりしたのは、単にあなたがツイていただけじゃないのか?はい、確かにツキはいつでも人生で大きな役割を果たすけれど、われわれはそれを知っているので、ツキの不都合な影響を最小化するように、適切と思われる予防措置をとり、それでも起きてしまったことには責任を取る。

 仮に避けがたい状況におかれたとしても、そのリスクを回避する方法をあらかじめわかっていながらそれを行わなかったとすれば、その責任は問われるべきだ。(遺伝的に、あるいはコミュニケーターとしての人間慣行を通じて)知識が増えれば、できることも増える。また、社会がどれだけそれに介入すべきか、ということは政治的な課題となるだろう。人間は知識を蓄えることによって、相応の利益を得るとともに、自らが責任を持つべき範囲をも増やすことになる。それが他の動物にはない人間の進化の特異性でもある。非決定的な二者択一の場面に自由の可能性をみることは、むしろ、決定不能で無意味な状況に人間を追い込むことでもある。そう考えると、デネットのような立場に立ち、人間とその自由の進化の可能性に賭けるのは、魅力的である。
 世の中には、今ある知識を死に魅入られたものであると断じ、自分自身の感覚に対する堅い確信を持ちそれに固執するとともに、そこから生じる新たな秩序(「創発」の力)に賭ける者もいる。これも一つの道であって、止める必要はないのだろう。しかし、そういう人間*2こそ、自分が「壊れる」可能性(あるいは、既に「壊れている」可能性)というものを謙虚に考えてみる必要があるのではなかろうか。

*1:この逸話は、安富歩「生きるための経済学」に出てくる自由の牢獄の話と似ている。安富氏の議論では、合理的経済人は効用関数が外部から与えられた「自動人形」であるかのようにみるが、デネットの議論からそのような結論は生まれない。

*2:03/27/07付けエントリーも参照。