ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ロバート・B・ライシュ「暴走する資本主義」

暴走する資本主義

暴走する資本主義

「超資本主義」とは何か

 原題は"Supercapitalism - The Transformation of Business, Democracy, and Everyday Life"。現在、米国の社会を席巻している「超資本主義」─資本主義が成功を収める中で、民主主義が弱まるという現象─について、多様な事例を通じ概観している。「超資本主義」では、労働者ないし市民としての我々の力が縮小し、消費者ないし投資家としての我々の力が拡大する。かつての古き良き時代においては、独占やトラストによって企業の利益は安定し、企業経営者は、労働組合との交渉によって余儀なくされる労働コストの上昇を価格に転嫁することが容易であった。また、この時代には、企業経営者は「ステーツマン」であり、自社の利益とはならないような場合であっても、国家的利益の向上のため、社会制度の実現に積極的に関与することができた。ところが、技術革新が進むことによって、かつての独占企業や労組、ひいては政府の力までもが縮小することになる。
 「超資本主義」は、「お買い得を求める個々人の欲求に対しては、きわめてすばやくできるようになっているものの、私たちが一緒になって達成しようとする目標に対しては、反応するのが非常に苦手」であるという市場の特性によって生み出されたものだ。独占やトラストの力が縮小するに従い、市場経済のシステムの中で、消費者・投資家がより有利な立場に立つ。その一方で、労働者が賃上げを要求し、それを実現していく力も弱まり、賃金と物価が歯止めなく上昇する危険も小さくなった。インフレは、以前よりもずっと抑えやすくなり、経済全体がより早く成長できる環境(ニュー・エコノミーと呼ばれる新たな経済の段階)ができたのである。
 「超資本主義」は、企業のロビー活動を活発化させることで、政府の力をまでも弱める。企業の社会的責任(CSR)という活動も、(かつての「企業ステーツマン」がそうであったように)社会に貢献するという意図から実施されているわけではない。M・フリードマンがいうように、企業が行う事業にとって大事なことは、社会に有益なことに従事することではなく、利益を上げることである。CSRが価値ある行動であることは否定できないが、それよりは、民主主義が正しく機能するようにした方が、その目的にとってより効率的かつ有効である(例えば、企業の提供する健康保険は、それをもっとも必要とする失業時に利用することはできないことなどを考えれば)。

企業という擬制のもたらす弊害への処方箋

 民主主義の復権のためライシュが語る処方箋は、企業の擬人化を助長するような制度を改め、それを「契約の束」という本来の姿として扱うことである。市民としての権利や義務を果たすことができるのは、人間だけである。この観点から、法人税のように、非効率かつ不公平な制度*1は廃止し、全ての法人所得を株主の個人所得と同様に扱うべきということも主張している。活気ある民主主義と力強い資本主義を同時に享受するため、両者の境界を明確にすべきであるとする。

感想

 春闘が経済の中で重要な位置を占め、人々の所得が総資本と総労働の間の交渉に大きく依存した時代には、労使関係は重要なイシューであり、マクロ経済政策も、必ずしも財政・金融政策だけに頼ることは不可能であったと考えられる。しかしながら、現代では業績・成果主義的賃金制度が広がり、就業形態も多様化する中で、人々の所得は、市場的な価値によって決定される度合いが強まった。このような変化は、ライシュのいう「超資本主義」への流れとも軌を一にしたものといえるだろう。政策の決定過程における労働組合の関与も、経済財政諮問会議の役割が形成される2000年代以降、大きく後退したと考えられる。
 このように考えをめぐらせると、「超資本主義」という時代の区分に強いリアリティを持つようになる。確かに、「超資本主義」によって企業経営の効率は高まり、より多くの富がもたらされたことは否定できない。その一方で、その富をどう配分するかは民主主義に依存する。また、世の中には、市場のメカニズムによってその価値を決定することが適切ではない分野もある。その意味では、民主主義の力がこれまで以上に弱まることに懸念を感じる。
 なお、民主主義を復権させるためにライシュが提案する方向性は、北欧型の社会システムに近いものである。このような具体的なモデルがありながら、そのことに触れていないことに、何か理由があるのだろうか。

*1:その理由については、本書のpp.298-299を参照。