ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎「「公共性」論」(1)

「公共性」論

「公共性」論

「公共性」について

 本書では、ハーバーマスアレント、アガンペンらの議論をたどりながら、「公共性」の概念を再構成し、また最後に、「よき全体主義」(テーマパーク型権力)を、問題をはらみつつも必ずしも否定することができないものとして再検討しています。リベラリズムと「公共性」との関係は、相反するものというよりは、相補的なものとして捉え直されているように思います。
 では早速、本書の内容を概観してみましょう。まず、「公共性」からみていくことになりますが、最初に、「市民社会」について、主に、ヘーゲルマルクスを起点として検討されます。ヘーゲルによれば、市民社会は、「悟性的国家」と言い換えられているように、理性を持つに至らないもの、政府による指導や統制が不可欠な存在です。一方、マルクスにおいては、市民社会は、市場経済という自己調整機能を持っており、国家は市民社会の利益よりも一部の者(ブルジョワジー)のために存在しています。今日の「市民社会論」は、どちらかといえば、ヘーゲル(=グラムシ)の理解に連なるものと言えます。しかしながら、市民社会を公益の実現の場というよりもむしろ私的自治の世界として捉えるべきであることに鑑みれば、そのような市民社会理解は、「一面的」であるという批判をまぬがれることができません。また、この視点に立つと、市民社会の私的自治を支える具体的な仕組みとして、私的所有、契約の自由(過失責任の原則を加えれば、いわゆる、近代私法の三原則)、およびその上位に位置する市場経済を位置付けることができるようになります。
 このような、二面性を持つ市民社会理解の根拠を探る上で次に素材とされるのが、ハーバーマスによる「生活世界/社会システム」の対比です。「生活世界」とは、生きる当事者たちによる秩序のもとに理解される社会であるのに対し、それを没人格的・自動的制御システムの相において理解したときに現れるのが「社会システム」です。スミスは、「見えざる手」のレトリックによってそのズレを調整するメカニズムを導入します。ところが、社会が大規模化し個人の影響力が低下すること、あるいは「囚人のジレンマ」的状況が生じ得るとするならば、その調整力への信頼は揺らぎます。
 このズレの克服は、18世紀以降の社会主義ケインズ政策福祉国家論の中で目的とされたものです。ところが、大衆社会化が進む中でその希望は衰退し、その状況に躊躇なく適応する「動物化」された人間も現れるようになります。このような人間は、社会システムを単なる「自然」として認識する人々です。ここで、これに対抗する原理として、アレントの「人間の条件」が敷衍されることになります。アレントの有名な「労働/仕事/行為」の図式に従えば、「仕事」によって構築された「世界」において演じられる「行為」は、人間固有の位置を与えるものです。「世界」は公的領域に属し、「行為」の模範的場所を古代ギリシアのポリス的民主政治に求めます。しかし、ポリス的「人間性」(これは、本書における「公共性」に読み替えることができる)は、「市民権が特権ではなく万人に帰属する普遍的人権となった」ことによって崩壊することになります。
 では、そもそも人間は「人間性」(「公共性」)を身に付ける必要はあるのでしょうか。アガンペンの「剥き出しの生」概念を経由した上で、ここではとりあえず、その問い自体がopen questionとして残されます。つまり、「剥き出しの生」であっても、それは常に悲惨なものとは限らない、テーマパーク的に飼い慣らされることの幸福という可能性もあるわけです。

二つのリベラリズム

 次に、これらの議論と通底するリベラリズムをめぐる議論をみることにしましょう。リベラリストの認識は、端的に、「比較不能な価値の迷路」という言葉に集約されます。リベラリズムは国家無用論とは異なり、「公共の利益」「正義」のために、価値中立的な国家が個人に干渉することを(その程度は様々ながら)認めます。この、リベラル・デモクラシーに対する有力な批判とみなされているのがコミュタリアニズム(共同体主義)です。ただし、本書におけるコミュタリアンのリベラリズム批判に対する視線はアイロニカルです。つまり、それを、個人の生の充実の舞台としての「公共空間」なる理想は、もはや全く実現不可能であるように、個人の生の充実は私的には実現され得ず、公的空間での承認を必要とすることもまた真実である、というものだとみています。
 このレヴェルにおいて、(多文化主義的)コミュタリアンがリベラリズムを批判するポイントは、グローバリズム批判に端的に表れるような「世界のマクドナルド化」=文化の収斂論です。個人の自由な選択に任せた場合、価値の多様性は縮小・衰退するであろうと予想しているわけです。彼らは、「公共社会のメンバー全員が共有できる積極的価値などない」ことは認めても、「公共空間」の存在は否定しません。これに対し、リベラリズムの側からは、「個人が徒党を組んで共同体を作ることも、それが参加者の自発的な合意に支えられている限りで容認」するというメタ・ユートピア論(ノージック)的な批判があります。また、その一方で、多文化主義的コミュタリアンは、さらにこれに対して、共同体同士の自由競争は、優勝劣敗によって価値の一元化が生じてしまうのではないか、と応じることになります。
 このようなコミュタリアンからの批判について、本書は、市場競争のアナロジーにより「やや大げさ」であると指摘します。一方、メタ・ユートピア論についても、そこから生じるのは「公共空間」ではなく、閉鎖的なコミュニティ同士が没交渉的に住み分けられた「オタクの島宇宙」社会なのではないか、とみなします。リベラリズムは、「個人を拘束する社会の重荷を解体することによって、同時に個人が承認を与えられる場をも解体してしまう」という意味の自己論駁性を持つものです。ここから出てくる結論は、あっさりとリベラリズム/コミュタリアンを対立させ区別することはできないという事実とともに、「動物化」を肯定する思想の可能性です。
 さて、ここまでは、リベラリズムをリベラル・デモクラシーとほぼ同じものとして議論されますが、ここで新たなリベラリズムの可能性として、「他律的/ひ弱なリベラリズム」(その対極にあるのが「自律的/逞しきリベラリズム」)が論じられます。これは、リベラルな法制度を維持し、政策を行う主体には関与しない市民からなる社会を意味し、市民は、市民社会のレヴェルにおいて自律、自己決定の権利と能力を持ちます。この立場に立つと、「リベラリズムは“自律へと強制する”という点において自己論駁的なのではないか」というフーコー的批判をまぬがれることができます。為政者にとって市民社会の私的自治を保護する理由は、持続的成長(それによる税収の拡大)のためのコストということになります。
 人工環境としての社会は、個人が操作不可能な社会システムであると同時に、公共的意志決定に自覚的に参加することで、生活世界としての相をも持つものであり、「公共性の感覚」は、この両義性に関わるものです。他律的/ひ弱なリベラリズムでは、市民は、この後者の契機から撤退していくことになります。これは、「動物化」へと導かれる危険をはらんでいますが、しかしながら、他律的/ひ弱なリベラリズムといえども、それほど「動物化」しているわけではなく(「程度の問題」)、消極的には規則・慣習の維持にコミットしています。このような姿が維持される限り、他律的/ひ弱なリベラリズムは、「公共性」へのコミットメントを保っているといえるのです。

(続く)