備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎「「公共性」論」(2)

「公共性」論

「公共性」論

(過去のエントリー)

「よき全体主義」の可能性

 話を続けます。これまでみてきたように、アレントのいう「人間の条件」は、ここでは「公共性」と不可分のものとして捉えられており、「動物化」は、公共圏からの撤退を意味しています。では、「動物化」は何を契機として生じるのかと考えてみると、それは、社会システムが順調に機能することによって生活世界の相が消失するからだ、ということもあり得ます。そしてそのとき、市場経済は、公共的コミットメントの負担を解除していく「情報管理型権力」の典型とみることができます。
 このような洗練された「権力」に対抗し、「公共性」を保持するべきだとする主張に対し、どのようなスタンスをとるべきかという論点は、本書の中で何度も繰り返されてきたものです。ここでは再度、「よき全体主義」を拒絶することはできるのか、との論点が現れ、これを肯定する有望な視点として、アレントの「忘却の穴」がとり上げられます。この議論は、洗練された管理システムによって、住民同士の関係の掛図を作り上げ、ある人間を人々の記憶を含めて跡形なく消滅させてしまうことのできる秘密警察的権力に関するものです。(ちなみにこの話から自分が真っ先に想起したのは、TDLでの幼児誘拐に関する都市伝説(?)です。)
 しかし、忘却されるには、まず、(公的空間の中で)記憶されること(「存在」すること)が必要になります。「Google八分」を恐れることは、まさに「忘却の穴」を恐れることと同じことを意味していますが、Googleに掲載されないことがサイバースペースに存在しないことを意味するわけではありません。実際に、Google以外にも同様の検索サービスは存在しているわけです。このような話は、資本主義の発展によって、社会から人々の主観レベルでの安定が奪われ、公的領域と私的領域の区分自体が解体されていくというアレントの問題意識に直結していきます。
 とはいっても、「一定の条件の下で適切に管理された資本主義市場経済」においては、全体主義的な追放や大量失業が生じることはありません。公的領域の解体が全体主義と同義だとしても、「よき全体主義」の可能性は残されているといえるでしょう。(このような言いぶりから、本書は、「一定の条件の下で」功利主義を擁護する立場に立っている、とみてよいのではないでしょうか。)

視点の転回

 その後、アガンペンの「ホモ・サケル」概念を主軸として議論が続くのですが、人々が自主的に、自己の判断に基づいて、心地よい欺瞞の園に参入することを選ぶ、その選択に支えられた「よき全体主義」「テーマパーク的権力」を否定することはできない、ということになります。
 このように、被統治者の視点から「公共性」の契機を導くことは難しいのですが、この視点を転回し、今度は統治者の視点に立ってみることにします。テーマパークの中にいったん入り込んでしまえば、もはや他の選択肢は遮断されてしまいます。一方、統治者の立場に即してみると、例えば、体制に確率的に生じる失敗、事故に対して備えるため、それを可能な限り減らすよう努力するとともに、それが体制そのものにとっての危機となりにくいよう検討する必要があります。この観点に立つと、統治者にとって全体主義を忌避する理由がでてきます。さらに、ドナルド・マッケイの議論を経由し、完全な統制を確立するためには、「予告破り」の可能性を排除するため、管理者は収容者とのコミュニケーションを遮断する必要があるとの結論が導かれます。つまり、全体主義は、体制に管理される者を「動物化」するだけでなく、管理者をも「動物化」する可能性があるのです。
 全体主義を否定し、「公共性」を確保し、公私の区別を守る理由は、被統治者の側にはありません。むしろ、統治者にとって都合がよいから、「現場で起きる不測の事態への対応は、末端の担当者の自主的な創意工夫を持ってするのが適当」だからです。しかも、統治者としては、世代交代、後継者育成を考える必要があります。統治者と被統治者は、一面では圧倒的に非対称的な関係にありながら、双方とも、自由なコミュニケーションの関係を保つ必要があるのです。
 「他律的/ひ弱なリベラリズム」は、統治者に即してみると、公的関心をろくに持たない「ホモ・サケル」を生み出しているのかも知れません。そうした人々が、「他律的」にではあれ「リベラリスト」たり得るためには、統治者の側のスタンスことが重要であるわけです。ただし、政治的に活発な市民の呼びかけが彼/彼女らを「自律的/逞しいリベラリスト」へと覚醒させることができるのかは定かではありません。どうやら、最後まで答えをみることはできないようですが、「動物化」するよりも、コミュニケーション的理性をふるってお互いを人間扱いした方が「楽しい」可能性があるのではないか、その可能性に賭けることに期待するところで話は止まっています。(なお、議論はさらに、エクソダスや「外部」の存在の可能性などをめぐって続くことになります。)

感想

 さて、ここまで本書の議論を概観してきましたが、これらの議論を評価することは、ぼくにはできそうにありません。感想を書くにも、せいぜい自分の信条表明を述べる程度でしょう。しかし、それではあまりにつまらない。ここでは、少し間合いをとりつつ、定期的に日本語Blogosphereにおいて繰り返される「成長か、分配か」という議論を、この「公共性」論を経由してどう整理することができるのかを考えてみましょう。
 ちなみに、この議論そのものについて、個人的にはほとんど興味はありません。だいたいなぜ「成長か、分配か」なのでしょう。「成長も、分配も」と考えることはできないのでしょうか。こうした議論が何度も繰り返されるのは、人々が、「効率と平等のトレード・オフ」という“神話”にとらわれすぎているせいだとはいえないのでしょうか。プラクティカルにいえば、たぶん、法人税の減税と所得税・資産税の累進制を高めることを同時に実施することで、ある程度それを実現することは可能だと思います。もちろん、それも「程度の問題」ではありますが。
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 この議論と「公共性」論をつなぐ補助線の一つとして、市場競争が激化し技術革新が進展する中で、民主主義と労働組合など社会のさまざまな中間組織の力が弱まり、公共的目標を達成することが困難になっている、という問題を考えてみましょう。ここでいう公共的目標には、格差や貧困の是正、地球環境の保全などが該当します。

暴走する資本主義

暴走する資本主義

 実は、市場の「暴走」という問題は、本書の最終章においても多くの紙面をとって論じられていますが、ここでの問題の捉え方は、上述の問題意識(ロバート・ライシュの「超資本主義」論)とは、少なからず異なっているように思います。厚生経済学にいうように、完全競争市場は社会をパレート最適な状況に導きます。本書にとり上げられている市場の「暴走」とは、厚生経済学が十分に考慮に入れていない契機のことであり、具体的には二つ、市場取引だけでは生活の糧を十分に得ることができない場合と、物価の不安定という問題です。特に後者に関しては、デフレの問題を強く指摘しています。
 日本における格差の問題は、当ブログで何度も取り上げているように、景気循環的な問題に強く影響を受けています。その意味では、これをデフレの問題と関連づけて、「一定の条件の下で適切に管理された資本主義市場経済」のもとでは改善されるような問題であるといえるのかも知れません。(その結果として、公共的コミットメントは弱まることになるかもしれませんが。)しかし、この「超資本主義」論において論じられているのは、必ずしもマクロ経済政策的に解決可能なものではないようにも思います。例えば、これまで各国において定型的にみられた「クズネッツの逆U字」は、近年反転する傾向がみられます。その背景として指摘されているのは、各国に共通した傾向である累進課税のフラット化と、企業内の収益配分構造の変化であり、このような指摘は、それほどはずしたものとはいえないでしょう。
 話を整理するため、ここでは、マクロ経済は均斉成長経路にあるものとし、「一定の条件の下で適切に管理された資本主義市場経済」は所与である、と考えましょう。そうしたもとでも、格差や貧困、地球環境問題がなくなるわけではありません。(ある程度、改善される可能性は高いとはいえますが。)このとき、民主主義の機能が弱まり、「よき全体主義」のような状況が現実化することは大いにあり得るといえます。というか、そうした状況をこそライシュは「超資本主義」とよんだのだと思います。しかしだとしても、そのような格差に甘んじ、その限りにおいて自由に生きることを否定する必要はないですし、だからこそ、「よき全体主義」を否定することはできないわけなのでしょう。だがその格差は、子供の世代において、さらに大きく乗り越えがたいものとして残ることも考えられます。子供は親を選ぶことはできない、子供に「選択の自由」はありません。それでもなお、リベラルな立場に立ち、ユートピア的生活を肯定することはできるのか。──
 本書や、他の稲葉先生の書籍を含め論じられてきた経済成長の必要性については、まともに考えれば、だれも否定することはできないことのように思います。市場経済のおかれた環境が「ロック的但し書き」を満たす状況にあることは、あらゆる公共的価値の実現に寄与するものです。しかしながら、話はそこに止まるものではない、というのも事実であるように思いました。

(以上)