経済的なものを期待するのが間違いなのは、ネットだけに限らない
先日のエントリーでは、比較的多くのコメント・ブックマークをいただき、ありがとうございました。その際、心に残っていたのは、同様の話はネットを経由した情報の提供だけに限らないだろう、ということです。このことは、誰かが触れてくれるのではないかとも思ったのですが、誰も触れてくれそうにないので、いちおう、自分で書いておくことにします。
例えば、経済書のように対象者に限りがあるマーケットを考えたとき、書籍を出版しても、そのための情報収集に要した費用や献本に要した費用等を加味すると、決してプラスにはならない、といった話があります。*1しかもそれは、比較的名前の知れた方の場合であって、そうではない場合はもっと大変なようです。例えば、学術書の出版では、こんな話もあるようです。
同時に、研究成果をどうやって出版していくかという、出版の問題もある。英語ならば世界中の人(われわれを含めて)が読むことができ、出すなら英語圏がもっとも有利なことはいうまでもない。日本語の場合、専門書になればほんとに売れない。千部刷ってくれるというのは珍しいのではないかと思う。おまけに、作成費が英語に比べて高くつくこともあり、印刷された本というかたちでは、あまり将来の期待はできないと思っている。むしろ専門書はこれから、CDやインターネットなど、コンピューターの画面で見るということになるかも知れない。それはもう仕方がないと思う。今後の問題を考えると、決して明るくはないのだが……。
これは、速水融「歴史人口学から見た日本」の一節を引用したものです。昨日取り上げたマースデンの本に対するはてな界隈の反応の少なさをみても、書籍の「質」の高さが、必ずしも経済的な「成功」に直結しないことはよくわかります。*2
http://d.hatena.ne.jp/asin/4757121644
むろん、経済学とは異なる、例えば、ノン・フィクションの世界では、マーケットが比較にならないほど大きいことは、さる方からお聞きしたことがあります。また、社会思想や哲学では、書籍のマーケットは経済学と比べて大きいため、ネットで名前を売り、煽ったあげくに出版にこぎ着けたとしても、比較的よく売れることはあるかも知れません。
あるいは、書籍の出版は、一回あたり数十万円の講演機会を得るための「糧」だと考えている方もおられると思います。
とはいっても、こういう人達のいったい何人が、10年後、あるいは5年後ですら、その社会的ポジションを維持できるんでしょう。それを維持しない限り、経済的な「成功」は不可能です。今まで興味を持って読んだ書き手が、マーケットを意識するようになったとたん、つまらない文章を書くようになることなど、日常茶飯的にみられます。
ネットを経由した情報の提供だけではなく、書籍の出版、ひいては論壇誌への論文の投稿などにしても、経済的な「成功」にいたる可能性は小さく、そうした仕事に経済的なものを期待するのは間違いなのです。*3言いかえると、出版事業を支えているのは、そこに参入することを望む人々の「書きたい」という強いインセンティブと、わずかばかりの栄誉を求める虚栄心なのかも知れません。このようなインセンティブ・虚栄心は、ブログなど、ネットを経由して情報を提供する人間とも共通するものだと思います。この先、ブログが面白くないなぁと感じ、はてな等へのアクセスの総数が急速に縮小するようなことになれば、それはまた、出版事業そのものが危機的な状況にあることの証左であるといえるでしょう。
(追記)
ブックマークでの多数のコメント、ありがとうございます。「濃い」人たちから、興味深いコメントをいただき、勉強になります。
「専門的視点から見たときに優れている書物を一概に「質が高い」と定義していいのか」との批判については、個人的には、そのように定義してよいと考えています。むしろ問題になるのは、「優れている」との判断が「誰」によって下されるのか、というところです。偏見を客観から区別する機構はどこにもありません。とはいっても、学術書にかかっている金と労力の大きさには、敬意を表すべきものもあるように思います。
「社会思想や哲学では、書籍のマーケットは経済学と比べて大きい」と書いたのは、あくまで自分の直感によるもので、書籍の最終的な出版部数が公表されていない以上、検証することはできません。例えば、Hatenar Mapsでの経済部門の領域の狭さから、そのような直感を持ちます。ただし、経済危機以降は、経済書のマーケットは大きく広がったような気もしますし、Hatenar Mapsで判断している時点で、視野が狭いのかも知れません。