ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

デヴィッド・マースデン「雇用システムの理論 社会的多様性の比較制度分析」(2)

雇用システムの理論―社会的多様性の比較制度分析

雇用システムの理論―社会的多様性の比較制度分析

※付注を追加しました(02/09/09)。

(過去のエントリー)

市場と商品

 日本の雇用慣行を考えるときに(あるいは、日本だけに限られるものではないのかも知れないが)欠かすことのできないキーワードに「内部労働市場」というものがある。内部労働市場とは何を意味するのかを検討する前に、まずは、「市場」とは何かについて、よりつきつめて考えておく必要があろう。市場とは、「商品」が交換(ないし、売買)される「場」が抽象化された概念である。ここでいう商品とは、各種の財やサービスのことであり、労働市場においては、労働というサービスが、交換の対象となる。
 経済学の基本的な考え方では、市場においては、商品を供給する主体と、それを需要する主体が(主たる)プレイヤーとなる。商品を需要する主体の需要の総量と、それを供給する主体の供給の総量は、ある安定した状態(定常状態)において一致している。また、その際の交換に用いられるレートが「均衡価格」である。現実の世界では、ある商品について、市場という特定の「場」が存在しているわけではなく、交換に用いられるレートも一律ではない。それは、個々の交換の場によってさまざまである。経済学でいう市場とは、個々の交換の場を抽象化した概念であるから、その論理によって、個々の交換の場そのものが縛られるわけではない。
 市場では、ある安定した状態において、均衡価格が成立し、それによって、個々の経済主体は安心して交換に応じることが可能になる。しかしながら、経済にはしばしば短期的なショックが生じることになる。経済学では、これらのショックに対して、新たな需給の均衡と価格が成立するメカニズムを教える。しかし、商品の特性によっては、新たな需給の均衡が簡単には成立せず、価格が下落し続けるなど不安定化することもある。こうしたケースは、論理的に導くことができる。現実の世界において、このようなケースに対応して、安定した価格を成立させる役割を果たしているのが、さまざまな慣行や制度である、ということができよう。
 具体的に労働市場で考えてみよう。短期のショックを考えるので、労働供給は一定とする。ここで、例えば、技能偏向的な労働需要が、短期的なショックとして労働市場に影響し、高技能労働者に対する需要が増加するとともに、低技能労働者に対する需要が著しく低下したとしよう。このとき、需要曲線は、通常のケースとは異なり、右上がりのスロープを描くことになる。

このケースでは、現在の価格(=賃金)が仮に均衡価格よりも低い水準にあった場合、供給が需要を超過することになるので、価格はさらに低下する。*1経済学的なモデルでは、価格を均衡価格に収斂させるメカニズムを持たない。しかしながら、最低賃金制度など、さまざまな慣行や制度の存在によって、その価格は一定の安定を保つことになるのである。*2

 さらに、労働市場について検討すべき点がある。労働市場が市場であるなら、そこにおいて成立する価格は、いうまでもなく賃金(給与)である。ところが、会社が従業員に対して支払うもののどこまでが賃金にあたるのか、ということについては、難しい論点が含まれている。以下は、野村正實「日本的雇用慣行─全体像構築の試み─」からの引用である。

 賃金の法的定義と関連して、経済学の分野で、賃金とは何かという問題をめぐって、古くから、「労働の対価説」と「労働力商品の価格説」が対立している。「労働の価格説」は労働基準法上の賃金の定義*3と同一である。「労働の対価説」と「労働力商品の価格説」のいずれを採用するかによって、会社が従業員に支払っているさまざまな給付のうち、どのようなものが賃金に含まれることになるのかについて、異なる結論になる。たとえば、「労働の対価説」では、「福利厚生施設」は労働の対価とは言いがたいため、賃金ではない。しかし「労働力商品の価格説」では、「福利厚生施設」は労働力商品の再生産にとって不可欠なものであり、賃金である。

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

 従業員が行うサービス単体に対して支払う狭義の賃金か、そのサービスが再生産される過程までを含めた広義の賃金かによって、労働市場が意味するところは、大きく違ったものになる。さきの論考では、生計費に応じた賃金という考え方について「一種のパターナリズム」と書いたが、後者の考え方にしたがえば、労働力の再生産に必要な生計費は、賃金であると考えることになんら無理はなく、それもひとつの公正原理だと主張することができるのである。
 現在、広く一般に議論される「賃金」概念としては、前者のとらえ方がよくあてはまるが、かつて、日本経済がまだ高度成長の途上にあった時代には、労使間において、生活管理闘争がくり広げられた時代もあった。生計費に準拠する賃金という考え方の背景には、「労働力商品の価格」としての賃金という考え方が、色濃く含まれているのである。このことについては、ここではこれ以上の議論は行わないが、この議論の延長で問題となるのが、パートや派遣社員などのいわゆる「非正規雇用」労働者の賃金であろう。*4
 その一方で、経済学では、賃金(=労働というサービスの価格)は、需要と供給によって決まることになる。さらに、その経済学のモデルに、価格はそれに応じて伸縮的であるという、現在の経済学者の考え方としてはやや特殊な労働市場観を付け加えると、賃金は労働の限界生産力によって定まることになる。労働力の再生産に要した費用は、一種のサンク・コストである。現在の生産過程において提供される労働というサービス〈だけ〉によって、賃金は決定されるのである。
 いや、むしろこういうべきなのかも知れない。市場において決定される賃金は、そもそも、労働力の再生産に要した費用を含めて決定されているのだと。ところが、時間が経過するうちに、需要と供給は大きく変わることになる。これは、労働以外の財・サービスの場合も同じであって、会社は、生産に要した費用を販売価格に転嫁できるという確証を持っているわけではない。労働力の再生産に要した費用を回収できない(=生計費に見合う賃金が得られない)としても、市場経済という原則の中では、極めて合理的な結果であるのだと。*5
 反経済学的な発想は、恐らく、こうした市場経済の原則に対して不寛容であるところから生まれるのだろうと思う。労働力商品の特殊性については否定するわけにはいかず、その意味で社会政策的なものの見方は重視されるべきなのだろう。しかしながら、それをつきつめると、結果的に、労働市場という「概念」そのものを否定し、ひいては、市場経済という原則に対する批判にまでつながることにもなりかねない。社会政策的な考え方には、その根底のところに、反経済学的な発想が生まれる素地があるのではないかと思うのである。

 話がやや拡散してしまったのだが、この論考の冒頭に引用した「労働の価格は数字としてではなく、ルールとして取り扱われるべきである」とするマースデンの雇用システムの理論は、こうした議論ともやや異なる視点を必要とするものである。あらためて、内部労働市場についてのマースデンの議論を、それに対する批判とあわせて整理することにしたい。

(続く)

*1:逆にいえば、現在の価格が均衡価格よりも高い水準にあれば、その価格はさらに上昇を続けることになる。技術革新を「内生化」させたダロン・アセモグルのモデルにおいて、高技能労働者の賃金が高まり格差が拡大することは、このような市場に内在する不安定性によって説明される。(http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20081224/1230128070

*2:前節で指摘した、労働市場のセグメントの間の「壁」が柔軟なモデルは、慣行や制度を経済学的なモデルの中にあてはめたものと考えることができる。

*3:労働基準法第11条では、賃金について、「この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう」とされている。

*4:この点については、さらに場をあらためて議論する必要があろう。特に、労働者の職業能力の形成を通じた成長の可能性の追求、という観点から、新たな社会のモデルを検討する上で、重要なポイントとなるものである。

*5:あるいはまた、労働力の再生産に必要な費用が無視されがちな市場のメカニズムの中でそれを評価する手段を確保するため、各種の規制が必要なのであり、また、そうした規制をもつような国家のインセンティブもあるのだ、といったように考えることもできよう。例えば、労働三権によって労働者のバーゲニング・ポジションが高まり、労使の賃金交渉の中で、生計費を確保することが可能になる。その一方、そうした枠組みから切り離された(とおおむね考えることができるであろう)いわゆる「非正規雇用」労働者の賃金は、生計費に満たないようなケースも生じてしまうことになる。「国家のインセンティブ」については、ミシェル・フーコーの「生を与える権力」〈生−権力〉に関する議論などによって説明することができる(http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20071012/1200062599)。戦争によって労働力が希少化すると、国家による労働に対する保護的な動きがでてくることは、サンフォード・ジャコービィ「雇用官僚制」をみてもよくわかる。