備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

オリヴィエ・ブランシャール「持続可能な欧州社会経済モデルは存在するか?」(1)

 英語練習のため、以下の論文(講演録)の翻訳を行いました。*1

 この論文は、田中秀臣「不謹慎な経済学」の中でも端的に整理されているもので、競争を促す制度や、雇用関係における「信頼」の重要性が指摘されています。

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

 この論文では、まず、持続可能な欧州モデルが備えなければならない「3つの支柱」:財市場における競争、労働市場における保険、マクロ経済政策の積極的利用、が説明され、それぞれの具体的な課題が論じられています。そして後半(未訳)では、その持続可能性についての課題と懸念、特に、ユーロによって制約される欧州諸国のマクロ経済政策についての問題点が取り上げられています。この部分については、また気が向いたら翻訳を行います。
 ちなみに、下のエントリーでは、雇用調整助成金などを活用した企業の雇用維持努力が、完全失業率の急激な上昇を防止している可能性について言及しました。

この論文の含意からいえるのは、企業の雇用維持を支える制度は、あくまでも、一時的な需要の低下に対応したものであるべきだ、ということでしょう。需要が永続的に見込めない事業の維持は、生産性の低下をもたらし、ひいては生活水準の低下をももたらすことになります。一方、一時的な需要の低下局面における雇用の維持や、資金繰りのための制度的な対応は、将来的な生産性の低下を防ぐことにつながるでしょう。

(追記)

 本稿でも取り上げられ、近年、何かと話題となるデンマークのフレクシキュリティについて、ネットで読める論考としては、以下のものがあります。

 なお、次の英語練習の素材としては、低インフレ下のマクロ経済学に関するアカロフらの有名な論文を取り上げてみたいと考えています。かなり、時間がかかることになるとは思いますが・・・

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持続可能な欧州社会経済モデルは存在するか?

オリヴィエ・ブランシャール


要約

 この講義では、寛大だがよく設計された社会保険の効率費用[efficiency cost]は大変大きなものである必要はなく、財市場における競争、労働市場における保険、マクロ経済政策の積極的利用、という3つの支柱[legs]に基礎づけられた持続可能な欧州モデルは、実際に存在するということについて議論します。
 欧州では、今世紀の初め以来、貧弱な成果が続いています。ますます多くの観測筋が、大西洋の両サイドから、実際に持続可能な欧州社会経済モデルは存在するのかを疑問視しています。私は同意しません。私は、その大きな論点についての決定的な表明が浅はかなものだと認識すると同時に、欧州モデルは機能し得るものだと心から思います。
 この「欧州モデル」という言葉を、私は、経済的効率性と寛大な社会保険の結合という意味で用います。より正確には、私は実証的な証拠に基づいて、寛大だがよく設計された社会保険の効率費用は大変大きなものである必要はないと思っています。これが、私がこの講義で明らかにするだろうテーマです。私は、2段階でこれを行うでしょう。
 最初に、私が考える良い欧州モデルの構造[architecture](国や時代を超えて、実際に実行されたことについては、概して不十分であるが、それが機能したかしないかに関しては伝えられてきた)を提示します。私は、そのモデルを3つの同じくらい重要な支柱:財市場における競争、労働市場における保険、マクロ経済政策の積極的利用、に頼るものであると考えます。この講義をここオランダで行うことは、実際的に無駄な労力を費やすことになる事実上、釈迦に説法である[bringing coal to Newcastle]*2ことを私は認識してはわかっています:他の国々では、これらの3つの支柱は「オランダ・モデル」の中心であるようにみなされています...そして私は、これら他の国々は基本的に正しい:今日では、オランダ人は、彼らのモデルの欠陥を外国人よりもはっきりとわかるようですが、距離をおいてみると、オランダ・モデルは実際にその良さを維持し、理想的な欧州モデルを生身に体化したものであるように思われます。
 私はここで、欧州モデルの実現可能性に関する湧き上がる疑問の背後にしばしばみられる3つの課題に取り組みます。第1に、1990年代半ば以来の欧州における生産性成長率の鈍化と、それが欧州モデルの効率費用がかつてよりもより大きなものとなったことを意味するのかどうか。第2に、ある国での成功が証明された労働市場慣行を、他の国にもうまく導入することは可能か、例えば、デンマークの「フレクシキュリティ」制度は、フランスやイタリアの問題をも解決することは可能か。第3に、ユーロ圏のメンバー国が直面する特殊な困難と、3番目の支柱の活用、つまり欧州モデルの構造全体にユーロが課す制約についてです。予断をもっていえば、最後の課題は、現在そして未来において私がもっとも気がかりな課題です。

1 全体構造

 良いモデルは、財市場における競争、労働市場における保険、マクロ経済政策の積極的利用、という3つの支柱によって立てられていなければならない、ということから始めます。それぞれ、順に取り上げます。

1.1. 財市場における競争

 経済の働きについて我々が学ぶたびに、より明らかになるのは、財(・金融)市場における競争の役割です。恐らく、私はわたしの主張:生産性の決定要因を学ぶたびに、私は効率性を達成する競争の役割により強い印象を受けてきたことについて、より穏やかであるべきなのかもしれません。ここでは、私の研究上の関心に関係する2つの要素についてのみ言及しましょう。
 しばらく前に、マッキンゼーの研究部門であるMGIは、国別に、共通するセクター間の生産性の違いについて調査することを決定しました。私はこれらの研究の多く、例えば、ドイツとフランスにおける情報通信・運輸業の比較や、トルコやロシアにおける銀行業の富裕国をベンチマークとした比較、などに参加しました。そして私は、比較的平板な重要性に達しました。後になって、私の信念はより強まりました。多くのケースにおいて、生産性の違いは、技術、資本、そして熟練労働[skilled labor]へのアクセスの違いよりもむしろ、競争的環境の違いに直面していました。より厳しい競争は、企業に対し、現存する技術をより効率的に活用するよう正しく強制し、非効率な企業を退出させます。
 補足的に、より定量的な証拠を振り返ると、まさに同じ結論は、ジョブの移動と再配置[job flow and reallocation]に関して、専門的研究が過去20年間にわたって積み上げてきた豊富なデータからも得られます。
 第1の主要な結論は、現代の経済においてどれほどの再配置が行われるかです:四半期ごとに、米国では、既存のジョブが5%以上喪失し、おおよそ同じ割合のジョブが創出されます。(これらは「ジョブの移動」であって、労働者の移動はさらに大きくなります。)恐らく、驚くべきことに、この水準は、より「硬化症の」欧州[“sclerotic” Europe]においても、大変共通するものです。これは、60年以上前に─しかし、当時は実証的な証拠がないままに─シュンペーターによって記述されたジョブの創出/喪失プロセスに関する劇的な証拠です。
 第2の主要な結論は、再配置は、実際に生産性の改善の背後にある主要な力であるということです。例えば、Foster et al[2002]によれば、米国の小売業の1990年代における大きな生産性向上のうち9割以上は再配置、つまり、ある事業所の内側での生産性の向上よりもむしろ、生産性の低い事業所がより生産性のある事業所に置き換えられることによるものであると結論づけています。この再配置の背後には、競争の力があります。
 これらの発見は、2つの主要な含意を持っています。第1に、生産性の向上、そして言わずもなく、生活水準の定常的な向上は、高い水準の再配置によるものだということです。他方を持つことなくして、一方を得ることはあり得ない。しかし、「再配置」という中立的な名前でエコノミストが言及するものは、同時に、しばしば「転置」[dislocation]とも呼ばれるものです:再配置は、しばしばある労働者にとって痛みを持つジョブの喪失を意味します。ここには、政策上の課題があります:置き換えられた人々に痛みをもたらす効果を限定しながら、再配置と成長を認める必要があります。このことから、社会保険という第2の支柱へと自然に導かれます。

1.2. 労働市場における保険

 フランスにおける一般的なスローガン─少なくとも改革派の間のもので、すべての政治家の間のものとはいわないまでも─に、「ジョブではなく、労働者を守れ」というものがあります。これは、実際によいスローガンであり、社会保険システムが何をすべきで、何をすべきでないかということの核心をついています。これはまた、多くの欧州諸国において、最適な実在の労働市場慣行からどれだけ離れているかを明らかにします:職を失うことから守ることを求める労働者の要求に直面し、政府は、雇用創出のための政策が持つ反対の含意を理解することなく、雇用喪失を制限しようとしがちになります。
 実在するシステムの欠点を見つけることは簡単です。そして、理論と、国々における多様な経験と政策から導かれる多くの実証的証拠の双方に基づいて(実証的知識の少なくない部分は、ここTilburgにおいて、Jan Van Oursらによって打ち立てられたものですが)、良いシステムのあるべき外形[contours]を定義することもまた、比較的簡単でしょう:

 良いシステムは、ある程度の雇用保護を備えるべきです。しかし、今日の欧州でとられている形とは、多少異なった形をとるべきでしょう。簡単にいえば、より金融的で、より司法的ではないものです。労働者をレイオフする会社は、少なくとも労働者が失業状態にある間受け取る失業その他の給付という経済的コストを、社会に対して課すことになります。これらのコストは、会社の中に内部化させるべきです。これを行う上でもっともよい方法は、今日の欧州の国々のように賃金税[payroll taxes]を通じて行うよりもむしろ、会社に対して、レイオフした労働者に支払われる給付と同額の負担金を支払わせることです。米国で活用されているような経験料率方式[experience rating systems]が示す方法では、例えば、レイオフした労働者に支払われる給付をその会社に対し事後に課すことや、会社の経時的な負担金を滑らかにすることを認めることで、これを行うことができます。
 賃金税の放棄には、一方で、労働裁判の役割の削減が付くことになります。裁判は、年齢、性、組合活動などによる差別が疑われる場合にのみ関与すべきです。しかし、もし会社がレイオフのコストを内部化すれば、裁判は、レイオフの背後にある経済的正当性の査定において、何もいうべきことがなくなります。フランスのケースのように、会社の経済的な決定について後でとやかくいわせることは、不確実性と非効率の源泉であり、会社だけではなく労働者の利益にもなりません。

 失業保険は提供されるべきですが、求職の妨げにならないものにすべきです。現在、かなりの数にのぼる実証的証拠による教訓によれば、保険は、監視が困難な求職活動についての(求職者の)報告だけでなく、訓練と求人がある際の承諾についても、条件をつけるべきです。このような条件付きの保険は、公平なものです:雇用創出が少ない地域における年長で不熟練の労働者は、必要があれば、その残りの労働期間の保険を受け取るべきでしょう;しかし、大都市の若い熟練労働者は、求人があれば、失業手当で生活するという選択肢を持つべきではありません。その原則は十分単純なものです;しかしながら、これまで学んできたことは、「悪魔は細部に宿る」ということです。「求人の承諾」の構成を定義することは、いつも、あいまいでどこか気まぐれなものになるでしょう。公共職業紹介機関[public unemployment agencies]には、失業者を仕事に戻すに足りるようなインセンティブがありません;(一方、)民営職業紹介機関[private placement agencies]には、労働者に不適切な仕事を強制させようとするバイアスがあります。とはいえ、既存のシステムは大幅に改善できるもので、改善の方向性は明らかなものです。

 ここでの特殊な問題は、技能や能力がほとんどない労働者の雇用についてです。不幸なことに、技能をほとんど持たない労働者の生産性が、彼らに「リヴィング・ウェッジ」、つまり、まっとうな生活水準を営み得ると社会が考えるだけの賃金を与えるに十分かどうかについての保証はありません。しかしながら、高い最低賃金というのは、明らかにこの問題に対処するのによい方法ではなく、どんなよい結果よりもむしろ、低技能労働者を増加させることになるでしょう。正しいのは負の所得税を活用することで、そのもとで、企業は労働者の生産性に沿った賃金を支払い、国家は、これらの労働者がまっとうな生活水準を達成することができるだけの金額になるよう追加することになります。搾取の最悪のケースを避けるため、─低い─最低賃金の役割はまだ残ります;しかし、そのような最低賃金は、所得再分配の目的として活用するべきではありません。ここで再び、悪魔は細部に宿ります、特に、負の所得税表[negative tax schedule]の細部に。しかしながら、米国において蓄積された多くの事実は、負の所得税を、よりよいシステムとして設計することを助けます。

 このような制度が導入されたとき、効率費用の大きさはどれほどになるでしょうか?明らかに、正しい答えは:我々にはわからない。しかし、周りをみると、ヒントが得られます。今日、欧州のエコノミストと政治家は、デンマークに熱中しています:デンマークの緩い雇用保護規制と積極的労働市場政策、いわゆる「フレクシキュリティ・モデル」は、少ない失業と確固とした経済的な成果をともなってきました。熱中とは、気まぐれなものです。その前にも「オランダ・モデル」がありましたが、オランダの労働市場が緩和的になるにつれ、その輝きを失いました。しかしながら、私の考えでは、これら二つの熱中は正当化されます。それぞれの国のすべてが完璧ではなく、欠点は、間違いなく近くでよく見えるものです。しかし、いくつかの他の欧州の国と同様、これら双方の国は、高い社会保険は少ない失業や持続的成長と調和しないという確かな証拠を提供しています。いいかえれば、寛大な社会保険の効率費用は、とても高いものである必要はない、という証拠です。

1.3. 積極的なマクロ経済政策

 私が述べてきた方策は、サプライ・サイドにおいて、企業が可能な限り効率的に事業を行い、潜在的産出量ができる限り高くなることを目指しています。しかし、オールド・ケインジアンがテーマとして取り上げるように、現実の産出量がいつも潜在的産出量に一致するという保証はどこにもありません。
 ある人々は、先に述べた方策がとられた場合、マクロ経済政策はもはや必要ではないと論じています。彼らは、「フレクシビリティ」によって、マクロ経済政策の介入なしに、経済は、その潜在的産出量に近い状態に維持されると論じます。しかしながら、彼らの議論は、「フレクシビリティ」という言葉の持つ異なる意味についての混乱によるものです。労働市場における文脈では、その一つの意味は、企業が、経済環境の変化に対応して、雇用を調整する能力のことです。この意味では、私は実際、企業にフレクシビリティを認める必要性について論じてきました。しかしながら、経済がその潜在的産出量を維持するために必要なことは、フレクシビリティの異なる次元、つまり、経済活動に応じた、名目賃金の強い反応です。この異なる二つの次元は、同時に生じる必要はありません。おそらく、その命題の最適な事例は米国です:米国の企業は、労働力の調整についてのほぼ完璧なフレクシビリティを持っています。けれども、名目賃金のフレクシビリティは、明らかにとても限定的です:名目賃金は、実際、欧州の国々以上に、労働市場の状況に応じて緩やかに調整されます。

 このことは、産出量を潜在的産出量に近い状態に維持するため、マクロ経済政策を活用する必要がある、というシンプルな含意を持っています。消極的政策のスタンスを採用し、名目賃金労働市場の状況に緩やかに調整されることは、調整過程として遅すぎることになります。米国では、その教訓はよく理解されています。消費支出や資産評価の急激な動きに直面し、当局は、金融・財政政策に足を踏み入れ、それを積極果敢に活用することに躊躇しませんでした。これは、まさに、2000〜2001年の景気後退局面における現実でした。これと共通の教訓は、欧州にも当てはまります:潜在的産出量の上昇は、良いことです;現実の産出量を潜在的産出量に一致させることを確かなものにすることは、重要であると同時に、積極的なマクロ経済政策を必要とします。
 整理してみましょう。私は、わたしの考える持続可能な欧州モデルの基礎的な構造を述べてきました。また、生身の体化であるオランダやデンマークのような国々は、他の国々での具体的な実験と同様に、保険の効率費用はとても高いものである必要がないことを示唆しています。この点において、皆さんはたずねられるでしょう:ことは本当にそれほど明らかなのか、本当にそんなに単純なのか、と。答えは、いつもそうである、というのであれば否です。多くの気がかりな理由があります。私の話の後半では、そのような理由を3点取り上げたいと思います。その長いリストを作ることもできるでしょうが、これらの3点は、私のリストの頂点に位置しています。

(続く)

*1:著作権上の問題等が判明すれば、友人限定のmixiに移行する予定です。

*2:ご指摘ありがとうございます。>id:kmori58様。