ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

人口問題におけるケインズ

 ケインズの人口問題に対する関心、特に、「マルサスの悪魔」については、二つの著作で大きく異なった視点から捉えられています。初期の著作「平和の経済的帰結」(1919)では、過剰人口問題への関心が強くみられますが、その後、イギリス優生学会で行われた講演録では、過剰人口問題に関する関心は後景に退き、総需要不足によって生じるであろう失業問題に関心が移ります。
 これらの点については、藤田菜々子「1930年代人口問題におけるケインズとミュルダール」に端的に整理されています。

http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/72nd/72paper/17fujita90.pdf

 後者におけるケインズの人口減少のとらえ方は、ひと頃広がった人口減少によって労働時間あたりの所得が高まる(=より「幸福」な社会となる)、という聞こえのよいシナリオとは大きく異なるものといえるでしょう。

ケインズは、人口減少下において生じる総需要不足に対処するため、消費性向を高める政策、ないし利子率を引き下げることで投資を促進する政策の重要性を指摘しています。こうした処方箋は、上にリンクした松谷・藤正の求める日本的経営・日本的雇用慣行の見直しや、企業の参入・退出の促進という処方箋とは、正反対のものです。(むろん、これらのバランスをとり、リフレーション政策下で市場の効率性を高めることができれば、痛みを軽減しつつ持続可能な経済システムを実現できるのかも知れません。)

 さて、この後者の講演録「人口減少の若干の経済的帰結」は、一般に入手することは簡単ではなく、特に、翻訳はいまだに行われていないようです。(前者は、東洋経済新報社ケインズ全集に収録されている。)であれば、ぜひ英語練習の教材に採用したい、という気持ちは強まりますが、(当然のことながらか)原稿をネットで入手することはできませんでした。
 本体については、いずれぼちぼち取り組むことを夢想しつつ、ここではとりあえず、ネットでググると真っ先ヒットする、デヴィッド・コールマンという人口学者の手によるイントロダクションを取り上げます。(残念ながら講演録についての説明は少なく、ほぼケインズの評伝のような内容のようですが…)

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J・M・ケインズ「人口減少の若干の経済的帰結」
デヴィド・コールマンによるイントロダクション


 人口学者、そしてGalton Instituteのメンバーにとって、ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)、Baron Keynes of Tiltonは、その驚くべき才能を、人口問題についての1937年の有名なGalton Lecture(下に転載)への取り組みに向けたことで、最も記憶に残っているだろう。そのエッセイを検討する前に、しかしながら、我々は一歩戻って、経済学者[economist]、公務員、国際的な交渉担当者、大学の会計官[bursar]、芸術のパトロンとしてのケインズを検討すべきだろう。若い時分、彼はインド省での公務生活(1906-08)と、ケンブリッジでの経済学講師(1908-13)の間で揺れ動き、そこで彼はEconomic Journal誌の編集を始め、1945年まで続けた。彼は、1915年に公務に戻り、1913年から1914年まで王立インド通貨金融審議会[the Royal Commission on Indian Finance and Currency]に加わり、1919年のヴェルサイユ平和会議では、大蔵省[HM Treasury]の主要な代表として活動した。そこでは、欧州の国境の変更に関するヴェルサイユの提案とドイツの賠償に関する彼の先見の明のある確信は破壊的で非生産的であり、1919年に彼の辞任を引き起こした。彼の批判は、「平和の経済的帰結[The Economic Consequence of the Peace]」(1919)として発表され、それは最初の、説得力のある強い意見を発表した数ある本の中でも、最も有名なもののひとつであり、後代の経済学者や人口学者が取り組んだとしてもまれな、明快で上品な散文である。「一般理論」(24章)からの、短い例で十分だろう:

 経済学者や政治哲学者のアイデアは、それらが正しいにしろ間違っているにしろ、常識的な理解よりも力強い。実際、世界を支配しているのは、それ以外はほとんどない。自身がどんな知的影響からも完全に除外されていると信じる実践的な人間は、通常、今はなき経済学者の奴隷である。空中の声を聞く、権力を持つ狂人は、その狂気を数年前の学界の三文文士から蒸留する。ここで、「長期的には」これ[貨幣量理論を簡単に説明する過程]は恐らく正しい。…しかし、この「長期」は、現在の問題に対する間違った案内人である。長期的には、我々はみな死ぬ。大荒れの季節に、嵐がとうに過ぎれば海は再び穏やかになるだろうと、我々に語ることができるだけなら、経済学者は、あまりにも簡単で、無用な仕事に自身をおいていることになる。*1

 彼の主たる仕事は、自由放任主義の経済学者や金本位制への復帰を攻撃する影響力のある本やパンフレットであり、代わりに先進的で新しい、戦後に広く採用され、広く誤解された経済運営のアプローチを提唱した。ほかの創造的なアイデアは、金利や短期均衡に関係している。彼は、1940年に大蔵省に戻り、1944年には、ブレトンウッズ会議における主役を演じた。彼は、IMFとInternational Bankにおける最初のイギリス人の長[governor]であるが、これらの機関は、ケインズのアイデアよりも米国財務省の正統により多く負うものであった。彼は、1944年から1945年まで、軍事物資の貸与、および必要な戦後借入に関する米国との交渉の責任者であり、6年間の世界戦争への支払いの後我々が直面することとなった「経済の大惨事[economic Dunkirk]」から、イギリスを救おうと助力した。
 ケインズは、学問的な家庭(彼の父は、ケンブリッジの経済学者・論理学者であった)の出であり、エリート文化と知的サークルに加わり、ケンブリッジの「使徒会」、およびロンドンのブルームスベリー・グループのメンバーとなった。彼には幅広い関心があった。ロシア人バレリーナのリディア・ロポコワとの結婚(1925)は、彼のバレエに対する趣向を発展させた。彼は、ケンブリッジに芸術劇場を設立・出資(1935)し、芸術協議会の設立を支援し、最初の議長を務めた。彼の素晴らしい文体は、経済問題を解明するだけでなく、より広い領域をカバーしている。例えば、彼のいまだによく読まれている「伝記のエッセイ[Essays in Biography]」(1933)は、マルサスに関するエッセイを含んでおり、そこで彼は、「人口学」の先駆者としてのマルサスよりも、彼の見方に強く共感しつつ、経済学者としてのマルサスに焦点を当てている。もちろん、マルサスの時代には「人口学」という言葉は使われていなかったため、私はこの言葉に括弧を付けなければならない。マルサスの人口学の仕事は、経済学者としてのそれに必須なものである;実際、経済学が「陰鬱な科学」という別称を持ったのは、マルサスの悲観的な見通しによるものだ。能力を実践的に使うことで、ケインズは、彼自身大きな富を蓄え、1919年から1946年までケンブリッジのキングス・カレッジの会計官[Bursar]となった。
 彼のヴェルサイユ条約に対する強い非難はさておき、彼の最も知られた仕事は「貨幣についての論文[Treatise on Money]」(1930)と、「雇用・利子および貨幣の一般理論[General Theory of Employment, Interest and Money]」(1936)であり、この時代の経済学における最も影響力のある単独の仕事である。ここでは、総需要、そして失業がどのように決定されるかが示されている。ケインズは、均衡状態における経済システムが完全雇用である必要性はなく、そのシステムは、いろいろな意味で本質的に不安定であり管理されなければならないものであると信じた。不況期には、最も低い賃金でも失業者を削減することはできない。個々の消費者の支出は、しばしば、十分な需要をつくるには足りない;これらの懸念を、彼はマルサスと共有した。代わりに、財政赤字による政府の補助金や民間投資の刺激策を通じた安定的な需要管理によって、失業は救済できるだろう。これらの理論において、所得/支出乗数という概念は、中心的な位置を占める。これらは全て大蔵省の正統や、ハイエク卿など他の経済学者の見方に強く反対するものである。
 戦後の政府は、ケインズ政策を採用し、政府自身が完全雇用に関与するようになった。彼の後継者は、しかしながら、しばしばケインズ自身よりも「ケインジアン」的であった。新しい時代は、需要管理から立ち退いた;マネタリストとサプライ・サイドの考え方の復活によって、その地位は挑戦を受けた。彼の「過剰貯蓄」問題、需要の失敗と政府の役割の必要性に対する関心は、マルサスによって1820年に最初に語られた同様の関心の反響である。今日の世界では、「低い中でも最低の[lowest-low]」出生率と、国内需要の失敗と経済停滞を導く過剰貯蓄という組み合わせは、日本において最も深刻にみられ、人口減少は切迫したものとなっている。
 ケインズは、いくつかの主要な仕事で強い人口動態的な仮定をおくものの、短いものを除けば、人口問題に関する主要な仕事は行っていない。例えば、「ネオマルサス主義」的な見方は、「平和の経済的帰結」で目立つものである。ここで彼は、欧州の稠密な人口は、戦前、農業や原材料生産がもはや自己充足的なものではなくその代わりに工業輸出に頼るものであったにもかかわらず、高い生活水準を享受したことに言及した。彼は、そのような大きな人口、特に、ドイツ(6,800万人)やロシア(1億5,000万人)は、産業破壊や大量移民の機会の喪失によって、もはや維持することはできないことを懸念した。
 ケインズは、このため、最初に「過剰人口というマルサスの悪魔O」に関与した。この悪魔は、好条件と生産性上昇のもとでは鎖につながれているが、人口増加が引き起こす一時的な有利な状況が終わると、解放されるだろう。ケインズは、そのとき流行していた出産奨励主義者[pronatalist]と戦い、それが生活水準を低下させる傾向があることを懸念した。彼は、戦後初期の出生率の低下は、好ましい社会発展を発展するものと感じ、しかしながら、彼の時代のほかの知識人のように、より良識的な国民・階級が他より前に出生数が低下するという、優生学に反する帰結を懸念した。これらの見方は、彼の1912年の講義「人口」に要約され、それは、最近になってやっと一般に公表されている(最近の人口に関するケインズの再調査(Toye, 2000)では、さらに詳細な分析がみられる)。
 しかしながら、ケインズは、1920年代の後半に幾分急進的に心変わりをし、彼の初期の経済的な悲観論と、それとともに、過剰人口の危機についてのマルサス主義的な見方を否定した。代わりに、彼は需要不足のリスクにより関心を持つようになり、1933年のマルサスの伝記的エッセイでは、(かつてのケインズのように過剰人口を懸念する)人口学者マルサスよりも、(現在のケインズのように需要の失敗を懸念する)経済学者マルサスをより際立たせた。1937年のGalton Lectureでは、彼の最も均衡のとれた人口問題に対する見方として、ケインズは、人口減少という反対の危険、20世紀において始めて1930年代に、過剰貯蓄と過少消費による「失業というマルサスの悪魔U」が解き放たれる現実的な可能性を指摘した。定常的な人口の状態では、2つの「マルサスの悪魔」は、増加する消費、より平等な所得と低い金利によって、最適に均衡を保つことができると彼は議論した。彼は結局、他の地域では過剰人口が存在し得ることを認識しながら、以前は強く非難していた人口減少をくい止めるための家族手当、その他出産奨励主義的な政策を促すようになった。ケインズは、心変わりについて、それほど非難され得なかった。彼は、彼に帰される数々の風刺のひとつにおいて、「私が間違っていたことをみつけたとき、私は心変わりをする。あなたならどうする?」と反論の余地なく問うことによって、そのような柔軟性を守った。
 彼の経済学者としての技量にもかかわらず、少しのデータと技術的理解に支えられた人口学における彼の気まぐれな努力は、その本領を発揮したものではない。下に転載したエッセイ[訳注 人口減少の若干の経済的帰結]が示すように、ほんの少しの統計的証拠が人口学、経済トレンド、またはこれら2つの関係において提示されている。代わりに、全てが第1の原則で[on first principles]基礎づけられている。*2この時代のケインズの2つの懸念はいまも存在するが、間隙をおいて分かれている。人口成長は世界で最も貧しい国々で高率で続いているが、世界全体では、年次の絶対増分ですらしばらくの間低下が続いた。豊かな国では、しかしながら、米国だけが、現在、長期的に人口を維持できる出生率となっている。家族手当やその他より小さな福祉政策は、現在、ほとんどの西側諸国の基礎的な社会政策としての要素を占めている。表面的には、これらは家族福祉の目的と労働力の柔軟性を拡張するために展開されてきた。左と右の専制権力は、公然の出産奨励主義に悪評を与えてきた。しかし、人口の勢い[momentum]の流れが尽きるにつれ、そしてケインズの時代に予想された人口減少がいくつかの欧州諸国で現実となり始めるにつれ、子供がほしい女性が子供を持つことを可能にするための人口動態的かつ福祉的な重要性が、何か国かの西側諸国と日本において、公の議論の場を得ることになり、直近ではEU委員会のグリーン・ペーパーにおいてはっきりと語られた。今日における他の目立った関心事である避けがたい人口高齢化と大量移民の高まりについては、前者について、低い出生率の避けがたい結果として、1930年代には少なくとも専門の人口学者の著作として見られるべきであろうものであったが、ケインズの著作の中では検討されていない。
 ケインズは、恐らく20世紀における最も影響力のある経済学者であり、しばしば「現代経済学の父」とみなされてきた。彼は、1937年に大きな心臓発作をわずらい、戦後の経済合意を守るための尽力によって疲弊し、1946年になくなった。彼には子供がなかった。

(参考文献)

The Economic Consequences of the Peace(1919). London, Macmillan
A Treatise on Money(1930)(2 volumes). London, Macmillan
Essays in Biography(1933). London, Macmillan
The General Theory of Employment, Interest and Money(1936) London, Macmillan.
Some Economic Consequences of a Declining Population(1937), The Eugenics Review XXIX, 13-17.

(伝記的・批評的著作)

Blaug, M.(1990). John Maynard Keynes. London: Macmillan with the Institute of Economic Affairs.
Blaug, M.(Ed.).(1991). John Maynard Keynes. Aldershot: Edward Elgar(2 Volumes)
Chick, V.(1983). Macroeconomics after Keynes: a reconsideration of the General Theory. Oxford: Philip Allan.
Eltis, W., & Sinclair, P.(Eds.).(1988). Keynes and Economic Policy: the relevance of the General Theory after fifty years.
Basingstoke: Macmillan with the National Economic Development Office.
Hicks, J.(1974) The Crisis in Keynesian Economics. Oxford, Basil Blackwell
Hutchison, T. W.(1977). Keynes versus the ‘Keynesians’ … ?. : an essay in the thinking of J. M. Keynes and the accuracy of its interpretation by his followers. London: Institute of Economic Affairs.
Keynes, Milo(1975) Essays on John Maynard Keynes. Cambridge, Cambridge University Press
Toye, J.(2000). Keynes on Population. Oxford: Oxford University Press.
Wickham Legg, L.G. and E.T. Williams(1959). The Dictionary of National Biography 1941-1950. Oxford: Oxford University Press pp 452-457.

*1:訳注 ここの『ここで、「長期的には」…』以降は、「貨幣改革論」の文章をつないだものと思われる。

*2:pending