人的資本論と内部労働市場論(1)
※注記を追加しました。(09/10/09)
(過去のエントリー)
- デヴィッド・マースデン「雇用システムの理論 社会的多様性の比較制度分析」(1)
- デヴィッド・マースデン「雇用システムの理論 社会的多様性の比較制度分析」(2)──市場と商品
- デヴィッド・マースデン「雇用システムの理論 社会的多様性の比較制度分析」(3)──内部労働市場論とその批判
(関連エントリー)
前回は、内部労働市場論についてその意味と歴史的な流れを確認するとともに、不安定な需要という経済環境のもとでは、内部労働市場は、その外側に緩衝材としての「二次的労働市場」を必要としていることをみてきた。内部労働市場では、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)などによって技能を蓄積し、それによって、「給料がよく雇用が安定して昇進機会もあり、恣意的な懲戒や解雇から保護されている」(出所については、前回のエントリーを参照)という意味での「よい仕事」が生み出される。しかしながら、それはまた、その外部に「二次的労働市場」がなければ維持することができない仕組みでもあるのである。
「二次的労働市場」は、現代日本におけるいわゆる非正規雇用労働者にも関係するもので、極めてアクチュアルな問題である。さらに、そこにおける労働者は、労使間の賃金交渉から疎外されており、市場経済という前提において「労働力の再生産」を可能とする賃金を得るための「術」を失っている可能性がある。こうした中で、パターナルな政策を前提とせず、これらの労働者に「労働力の再生産」が可能になるような「術」を与えることは可能か*1、またそのためには何が必要か、といった問題意識・論点が生じてくる。
この節では、「二次的労働市場」の問題からいったん離れて、その一方の極にある内部労働市場について、より経済学に親和的な立場から考える。
ゲーリー・ベッカーの人的資本論
上述のように、内部労働市場ではOJTなどによって技能が育成され、それを通じて長期的に賃金は高まる。しかし、企業が外部の教育訓練機関を通じた労働者の技能育成よりも企業内での教育訓練を選択するのは、企業にとってそれがより効率的だからだといえる。仮に、外部の教育訓練機関を通じた労働者の技能育成の方が効率的であれば、企業は、雇用契約により労働者と長期間の不完備契約を締結することなく、スポット的契約によって訓練を受講した労働者を調達するようになるかも知れない。例えば、職業別の労働市場が有効に機能している場合(建設労働者や情報関連の高度技術者のケースなど)は、プロジェクトごとにスポット的契約で労働者を調達することはあり得る。だが、そのためには、外部労働市場が有効に機能しているとともに、あらゆる企業に一般的に利用できる技能が社会的に提供され、労働者は、それを身につけようとするインセンティブを持っている必要がある。
ゲーリー・ベッカーは、内部労働市場が機能し得るための一つの条件である企業内教育訓練の収益性に関する議論を行っている。
- 作者: ゲーリー・ベッカー,佐野陽子
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
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教育訓練から収益は、労働者が長期間企業に雇用される場合、その労働者に対して訓練を施すことによって得られる収入と、訓練に係る費用によってきまる。労働市場と財市場が完全競争である場合、長期間の教育訓練の均衡条件は、
ただし、MPt:t期の労働の限界収入、Wt:t期の賃金総額、C:教育訓練の費用、と表される。なお、ベッカーは、労働の限界収入と教育訓練の費用について、その機会費用(opportunity cost)を含めた議論を行っている。
この枠組みをもとに企業内教育訓練の収益性の根拠について考えるとき、ベッカーによって用意された一般訓練と特殊訓練の違いから、その見通しを付けることが可能になる。まず、一般訓練であるが、これは、その訓練を行う企業だけでなく多くの企業にとって有用な訓練である。この場合、訓練にともなう限界収入の増加は、完全競争の前提から、そのまま賃金の上昇につながる。訓練を行う企業にメリットはなく、企業は、労働者が費用を支払う場合にのみ一般訓練を行う。このとき、(A0)式は、
となる。賃金額は、訓練の費用分だけ限界収入よりも低くなり、訓練費用は、労働者が負担することになる。企業が必要とする労働者の技能が一般訓練によって得ることのできるものであれば、企業にも労働者にも、長期雇用のメリットはあまりない。
ただしこの場合であっても、労働市場における情報の非対称性から、労働市場において労働者の技能がその限界収入に見合うよう適切に評価されないことや、採用コストがかかるため労働者の離職を防ぐことを目的に企業がその雇用する労働者に限界収入以上の賃金を支払うことは、理論的にあり得る。また、雇用契約によって企業が柔軟性の獲得と不確実性への対処が可能になる(D・マースデン)ことは、先に述べているとおりである。
とはいえ、企業が必要とする労働者の技能が一般訓練によって得ることのできるものである場合、企業が教育訓練を行うことには困難が生じ、社会的に必要とされる訓練が過小になるという問題も生じ得る。ベッカーは、この問題について、次のように語っている。
競争的労働市場で所得の極大化をはかる企業は、一般訓練の費用を支払おうとはせず、訓練を受けた者に市場賃金を支払うであろう。(中略)訓練費用を支払いながら、訓練された者に市場賃金以下しか支払わない企業は、最悪である。なぜならこのような企業には、訓練を受けようとする者は殺到するが、訓練を受けた者はいなくなるからである。(佐野陽子訳「人的資本」 p.26)
つぎに、特殊訓練であるが、これは、訓練を行った企業において生産性を特に大きく増大させる一方、他の企業では生産性の増大につながらないような技能に対する訓練である。この場合、労働者が受け取る賃金はその訓練の量と関係なく一律となり、合理的な労働者は、訓練の費用を支払おうとはしない。長期間の教育訓練の均衡条件は、W0(市場賃金)とMP0(労働の限界生産力)が一致することで、
と表される。つまり、企業にとって、訓練の収益とそのコストは一致することになる。
特殊訓練を行う企業は、訓練を行った労働者が離職すると損失を被る。一方で、労働者も、自身の生産性を最大化させる企業を見つけることはできないため、離職によって損失を被ることになる。こうした場合、企業と労働者は長期的な訓練費用とその収益を分かち合うことで、より長期的な関係を結ぶことが効率的になり得るのである。
人的資本論は、賃金格差を訓練の量およびそれにともなう労働の限界生産力の違いに結びつけて解釈することを可能にした。これによって、賃金格差は合理的に説明することが可能になる。
しかしながら、人的資本論には、例えば、先に述べたような情報の非対称性をより重視する観点からその根拠を批判する向きもあり、この場合、労働者の賃金と訓練量を一意に結びつけることはできない(スクリーニング仮説)。
また、内部労働市場論は、人的資本論の特殊訓練の考え方と整合的に理論付けることが可能であり、小池和男の「知的熟練論」もそのような理論の一つと考えることができる。
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20070610/1181483008
その一方、ここで再び「二次的労働市場」が問題になる。この点について、鈴木昌宏(早稲田大学教授)は次のようにいう。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4250/1/93116_401.pdf
このような内部労働市場(一次的労働市場)が成立するのは数少ない大企業の中核的人材のみであり、下層の労働者や外部労働市場の労働者は教育・訓練の機会に恵まれず、キャリアを積むこともない二次的労働市場で働くことになる。マイノリティ・グループや教育レベルの低い層あるいは移民労働者などがこの二次的労働市場に滞留することになる。当然ながら、人的資本理論が想定する教育・訓練への投資は二次的労働市場には全く不適切な枠組みとなる。この意味からは、内部労働市場論は楽観的な人的資本論に対する否定的な色彩が濃い。(「人的投資理論と労働経済学 ─文献サーベイを中心として─」(早稲田商学 2004.09))
「二次的労働市場」は、非正規雇用者だけではなく、中小零細企業で働く労働者にもその一面がみられるものであり、実際、企業規模別に賃金(あるいは離職率)には大きな違いがある。
このような賃金格差は、主として労働生産性の違い、ひいては企業ごとの資本装備率の違いによって生じていると考えられる。その結果、内部労働市場の内側には「よい仕事」がある一方、その外側には「二次的労働市場」が温存される。こうした現実を前にすると、人的資本論はその説得力を大きく失うことになるだろう。ただし、企業規模を含めた属性をコントロールした中で教育訓練の賃金に対する効果を判定する分析モデルの「範囲内」であれば、教育訓練の収益率を測定する人的資本論のモデル*2にも、まだ可能性はあるだろう。
一方、非正規雇用者、特に若年層のそれについては、教育訓練の機会がないことが問題となる。この点については、下のコラムが簡潔にまとめてあり参考になる。
(続く)