備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

山森亮「ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える」

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

 このところ、ベーシック・インカムという言葉をよく聞くようになった。その意味するものは幅広く、論者によってニュアンスの違いもあるのだろうが、一般的には、すべての人に対し、その所得や世帯構成などの違いに関わりなく、無条件に給付される生活の必要に足るだけの所得、といったように考えられるだろう。(なお、本書で「ベーシック・インカム」として取り上げられている対象はより広く、M・フリードマンらが提唱したいわゆる「負の所得税」なども含まれている。)
 ベーシック・インカムは、単に研究対象として、あるいは各種の活動において要求されただけのものではなく、米国や英国などでは一部に実現されており、日本においても、民主党を中心とした連立政権において「子ども手当」の給付が検討されているが、これもまた、その理念的なところに遡って考えれば、「ベーシック・インカム」的な給付のひとつと考えることができる。ベーシック・インカムがこのところよく聞かれるようになった背景には、貧困問題、とりわけ「ワーキング・プア」とよばれる、働きながら貧困状態におかれる階層が少なからず存在することが知られるようになったことがある。

ベーシック・インカム福祉国家

 貧困問題に対処するため、戦後、「福祉国家」という理念のもとで所得保障の仕組みが作られてきた。本書では、この「福祉国家」の理念をつぎのように整理している。

(1)完全雇用の達成(個人にとっては、仕事は探せばある、仕事に就けば食べられる)を前提とした上で、
(2)一時的なリスクには、事前に諸個人が保険料を拠出する社会保険が対応し、それでも無理な場合は例外的に、
(3)セーフティーネットとして生活保護など、無拠出だが受給にあたって所得などについての審査を受けなくてはならない公的扶助と呼ばれる給付を行う。

山森は、生活保護世帯の捕捉率(生活保護を受給できるはずの世帯のうち、実際に受給している世帯の割合)が低いことなどをもとに、日本における福祉国家の「機能不全」を指摘し、またその上で、完全雇用や賃金労働を「前提」とした福祉国家への対抗運動としてのベーシック・インカムを要求する運動や、ベーシック・インカムの理念(その根拠)について議論を展開する。これらの要求運動や理念は、総じて、福祉国家における「ソーシャルワーカーによる恣意的な審査」を拒絶し、無条件的な給付によって、「必要の強制」からの自由を求めるものであると考えることができる。

ベーシック・インカムの理念/あるいは不問とされた視点

 ベーシック・インカムのような無条件的給付は、「働かざる者食うべからず」という言葉に体現される、労働を勤勉とする価値観とは、一見そぐわないものである。一方、「家事労働に賃金を」との主張をしたイタリアの運動は、所得の対象を「貨幣経済の中での労働力商品の交換」である賃金労働だけに位置づけることへの疑義と考えることができる。労働とは、市場経済の枠内における賃金労働に限られるものではなく、家族や地域社会のなかでの互酬的な行為を含め、その概念を一般に働くことの全体に拡張して考えても違和感はない。また、本書の第3、4章では、ベーシック・インカムの根拠が理念的、思想的な側面から検討されており、「ポスト工業化社会」において労働時間と余暇時間の区別が曖昧となり、「生きていること自体が報酬の対象となる」とするアントニオ・ネグリや、本来共有であるべき土地、または過去からの文化的遺産からの正当な分配としてベーシック・インカムを考えるトマス・ペインやジョゼフ・シャルリエなどが紹介される。さらに、山森によれば、ケインズ有効需要論もベーシック・インカムと矛盾なく接続するという。
 このように、ベーシック・インカムは無条件的な給付であるが、個人がそれを獲得することがまったく無根拠で、不健全なものだと結論づけられるものではない。賃金労働には含まれない働くこと一般や、公共的なものの対価として、個人がそれを受け取ることは道理にかなっている。
 本書とは放れるが、つぎのような視点から無条件の給付という考え方を根拠付けることもできる。理念的な労働市場を考えたとき、企業の利潤最大化による価格調整メカニズムの下で、「労働力商品」の価格はその限界生産力として現れる。しかし、労働者は、育児を行い、親の介護を行っているが、その費用は「労働力商品」の価格の中には含まれていない。育児、介護を通じた「労働力の再生産」に要する費用は、市場経済の中では獲得することができないため、その給付をベーシック・インカムとして社会全体に要求するのである。*1このような考え方は、民主党を中心とした連立政権の下で検討が進められている「子ども手当」の根拠と考えることも可能である。
 ただしその一方で、本書の議論では、そうした給付が、国家がその国民から徴収した税金を財源として行われることに根拠があるのか、という点を不問にしている。働くこと一般等に対する給付は、その応益者によって行われるべきだという考え方があってもおかしくはない。しかも、ベーシック・インカムに関する議論では、その源泉を税金に求めることを前提としつつも、国家という存在が希薄であることは注目されるべきである。このことは、そうした給付を統制する存在とその権限を曖昧にする。結果として、ベーシック・インカムは、国家の意思が関与せず、統制のとれない無制限な給付に堕することになるのではないか。
 このような懸念は、ベーシック・インカムの根拠を公共的なものに求めていることから自然に生じ得るものであって、いわゆる「共有地の悲劇」と重なる。本書では、労働インセンティブと財源についての検討はなされているものの、こうした視点からの検討はされていない。いずれにせよ、さまざまな懸念に対する明確な回答を本書の中に見出すことは、いまのところできていない。*2

国家の存在をどう考えるか

 ベーシック・インカムに関する議論の中で国家の存在が希薄であることの理由ははっきりしており、その答えは、本書の中からも見出すことはできる。つまりそれは、ベーシック・インカムという考え方が、「福祉国家」に対する対抗軸として出てきたことに起因している。
 富永健一「社会変動の中の福祉国家」では、福祉国家が呼び出されるようになった背景をつぎのように説明する。

女性の社会進出や核家族化によって、家事や育児はそのかなりの部分を家族の外に出さざるを得なくなり、保育所や老人介護等への需要が増大する。こうして家族の機能が低下したとき、この機能の空隙を埋めるものは、結局国家しかない。家族と国家の間には、企業やNPOなどの「諸社会」が存在するが、介護のような「商品化」するに異質なサービスは、企業よりもNPOの方がふさわしく、一方でNPOはボランティアが中心で制度体ではないため、必然的に国家が呼び出されるようになったとするのである。オイルショック以降、福祉国家の危機が叫ばれるようになり、「新保守主義の経済学」はその機能を市場における交換の機能によって肩代わりさせようと考えたが、介護サービスの「商品化」に失敗したコムスンの事例などにもみられるように、このような試みはうまくいかないとみている。
 国家が家族の機能の空隙を埋めるということは、家族、あるいはそこから分化した個人の生活の中に、国家の意思が介入することでもある。
 一方、ベーシック・インカムは、互酬的な労働に対価を与え、かつその対価を何らかのメカニズムの下で決定する試みである。家事労働や医療、介護などは「商品」と考えるになじまないが、従来の市場経済とそぐう形で拡張された社会的仕組みとしてその対価を給付する機能を持たせるのである。その意味では、福祉国家論と比較し、ベーシック・インカムに関する議論は、国家の機能を抑制しようとする新自由主義的経済観と親和的なものである。

単純な対立軸をおいてみる

 このように、福祉国家の下で、国家の意思が介在する形で行われる政策と、ベーシック・インカムのように無条件の給付によって行われる政策との大きな違いが現れるのは、働くことの自由をめぐる論点であろう。福祉国家(厳密には、ケインズ=ベヴァレッジ型福祉国家)の下では、労働不能者というスティグマを打たれることによってのみ、無拠出の扶助を受けることが可能になる。一方で、働くことができる場合には、「自立支援」あるいは「アクティベーション」という形で、市場経済の中での経済的自立が促されることとなる。この場合、個人の「働きたくない」自由(いいかえれば、労働の完全なる「脱商品化」)を尊重することはない。濱口桂一郎氏は、日本の「アクティベーション」に係る政策を、「低賃金のわな」という視点から批判するとともに、欧州における寛大な公的扶助の問題点をもあわせて指摘している。

 では、日本の労働者は既にアクティベートされているから問題がないかというと、まったく逆であり、「失業の罠」や「福祉の罠」に安住できないが故に否応なく就業せざるを得ない彼らの多くは、非正規労働者として就職せざるを得ず、「低賃金・低技能・不安定雇用の罠」に陥っている。つまり、適切にではなく、不適切にアクティベートされてしまっていることが、日本の労働市場の問題である。これに対して、ある種の人々はセーフティネットの拡充と称して、失業給付や公的扶助をより寛大にすることを主張しているが、厳格なアクティベーションを伴わなければ、それは欧州が脱出しようとしてきた旧来の姿に向かうことでしかなく、適切な政策とはいえない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/oecd-dd50.html

 その一方、ベーシック・インカムのような議論では、「働きたくない」自由を積極的に認める。いいかえれば、職業の貴賎を積極的に認め、やりたくない仕事はしない、という考え方を権利として認めるのである。私見では、このような論点はいわゆる「ゼロ世代」の論者がある程度共有しているもので、その主張の核心にあたるものだと考えている。
 こうした価値観にしたがい、ベーシック・インカムによって、自由で寛大な扶助のシステムを創ることの結果は、おそらく、そのシステム自体が統制を失い、持続不可能なものに堕することとなるだろう。またその結末は悲惨である。一方、官僚機構を中心に置く国家(政府)が信頼を失う中で、福祉国家を動かす新たな統制の仕組みを考えることは簡単ではない。濱口であれば、それを「ステークホルダー民主主義」というコーポラティズム的なシステムの中に夢想するかも知れない。

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

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しかし、自身がそれを「生煮え」と認めるように簡単にできるようなものではなく、代表性の確保だけでも大きな議論と長い時間を要するものであり、歴史を持つ欧州における議論でも「一体誰に誰を代表する権利があるのかという肝心のところは曖昧な印象」があると語っている。
 「積極的自由」を考えるにせよ、統制された社会を再構築しようとする「ステークホルダー民主主義」にせよ、いまの福祉国家を乗り越えるのはそう簡単なものではなさそうである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20090116/1232123452

*2:もちろん、福祉国家を多元的に考えることで、その枠組みの中で、ベーシック・インカム的な給付を考えることは可能である。