備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

岩井克人「貨幣論」

貨幣論

貨幣論

 岩井克人は、その貨幣論において、貨幣というものの根拠をつぎのように説明している。マルクスの価値形態論では、あらゆる商品に対して「等価形態」にある一つの商品が、均質的で、分割可能で、耐久的な、すなわち金という商品に、その地位を譲り渡すことによって貨幣となる。ここで、「等価形態」というのは、マルクスが「単純な価値形態」、

20エレのリンネル=1着の上着

を表記したときの「1着の上着」に相当するものである。このとき、リンネルは「相対的価値形態」にあるとされ、上着と交換されることによってその価値が表現される。一方、上着は、リンネルという主体に対して客体、図に対する地にあたるものであり、価値を表現するための尺度となる。このように、マルクスの価値形態論の原初的な段階では、二つの商品がそれぞれ主体と客体の位置を占める非対称的な「関係」によって満たされた「場」が存在していることになる。このとき、リンネルは、上着を尺度とすることでみずからの価値を表現するが、等価形態にある上着には、その価値を示す根拠となるものが存在しない。しかし、単純な価値形態では、等価形態はあたかもそれ自体が価値を持つものであるかのようにみなされてしまう。岩井は、マルクスがこの出来事を「とりちがえ」とよんでいることに注目する。
 マルクスは、そこからさらに、20エレのリンネルが上着だけでなく、茶やコーヒー、小麦、金など、さまざまな商品を等価形態とすることでみずからの価値を表現する「全体的な価値形態」と、それまで主体の位置にあったリンネルが客体となることによって、主体となった上着や茶、コーヒー、小麦、金などの価値が表現される「一般的な価値形態」という、二つの中間的な価値形態を導く。そして、一般的な価値形態における等価形態がある素材的な特性を持つ金属に置き換わることで、貨幣形態が生まれることになる。
 現在では、貨幣は、金や銀という素材から、銀行を通じて金貨や銀貨などの「本位貨幣」または金地金等と交換が約束されている兌換紙幣へ、そして、その交換が約束されていない不換紙幣へと替わっている。いずれにしても、貨幣、すなわち主体である商品の価値を表現する尺度となる等価形態の価値は、不問のまま残されている。しかし岩井によれば、マルクスは、この貨幣の価値を労働価値説によって、つまり、労働生産物としての金によって説明するという経路を用意していたとする。
 なお、この経路は、マルクス自身が述べているデーヴィッド・リカードの考えに相当するものでもある。

 リカアドは、まず金銀の価値を、ほかのすべての商品のそれと同じように、それらに対象化されている労働時間の量によって規定する。ほかのすべての商品の価値は、あたえられた価値をもつ商品としての金銀ではかられる。そこで一国の流通手段の量は、一方では貨幣の度量単位の価値によって、他方では商品の交換価値の総額によって規定される。

経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

 マルクスは、ここから、貨幣についての数量説的な視点によって、物価の高騰と下落について説明している。岩井は、この労働価値説による貨幣価値の根拠付けは破綻していることを指摘する。不換紙幣は、それ自体まったく無価値なものでありながら、単なる価値の「記号」として貨幣の完成された形態となる。しかしその記号は、記号されるものと記号するものとの関係に恒常性があるからこそ、はじめて記号としての働きをするものである。実際には、財源に乏しい国家が紙幣の量を増やすことがあるため、この恒常性は成立していない。 マルクス自身も、「紙幣は流通するから価値をもつ」というように、その価値が無根拠であることを認めている。

 岩井はさらにここから、マルクスによっては語られていない貨幣の「神秘」について語りを進めていく。全体的な価値形態と一般的な価値形態との関係には、リンネル(最終的には貨幣)を媒介項とすることで、その一方の形態が別の一方の形態の成立を可能にする循環論法が示される。この循環論法が無限の繰り返しをすることで、新たな価値形態が生じる。

 ひとたび無限の「循環論法」としての貨幣形態Zが成立してしまうと、貨幣という存在はまさにその「循環論法」を現実として「生き抜く」存在となる。それは、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性をあたえることによって、ほかのすべての商品から直接的な交換可能性をあたえられ、ほかのすべての商品から直接的な交換可能性をあたえられることによって、ほかのすべての商品に直接的な交換可能性をあたえている。じっさい、この「循環論法」のなかには、貨幣として機能している商品の生産のために投入される人々の社会的な労働、貨幣として機能している商品にたいして人々がいだく主観的な欲望、さらにはある商品を貨幣として強制的に使わせることになる共同体の申し合わせや君主の勅令や市民のあいだの契約や国家による立法といった外部的な要因はいっさいはいりこむ余地はない。

 価値形態論における貨幣は、このようにして、循環論法的に成立することになる。さらにそこに交換(取引)という行為を行う人間を導入し、交換過程論の視点からみると、貨幣が成立する根拠は、それをまた誰かほかの人が貨幣として引き受けてくれることが期待できるという事実ということになる。

 そこで、一枚の一万円札を手にもっているひとりの買い手を想像してみよう。この書いてはなぜ、自分の手にあるたんなる一枚の紙切れが紙切れとしての価値をはるかにこえる一万円の価値をもつ貨幣であると信じることができるのだろうか?
 この問いに答えるのは一見すると簡単である。それは、もちろん、将来のいつの日かに、だれかほかの人間がその一枚の紙切れを一万円の価値をもつ貨幣としてひきうけてくれるからである、いや、ひきうけてくれると期待しているからである。ここに介在しているのは、自分の欲望ではなく、他人の欲望なのである。

このようにして、貨幣自身の価値はどのように根拠付けられるのかという問いは、市場経済という過程の中で、無限に先送りされ続けることになる。

恐慌とハイパー・インフレーションという二つの危機

 貨幣が存在しない物々交換の経済では、ある商品Aを「売る」ことで必要とする別の商品Bを「買う」ことは、それとは対照的に、商品Bを「売る」ことで必要とする商品Aを「買い」たいと考える別の経済主体との偶然の出会いがない限り不可能である。貨幣経済においては、貨幣という特殊な商品が、多くの経済主体間の間を取り持つことによって、偶然にしか生じないという交換の困難を克服することができる。物々交換の経済では、売りは必ず買いをともない、買いは必ず売りをともなう。貨幣経済であっても、貨幣は単に交換のための媒体となるにすぎないときには、売りと買いはつねに均衡している。
 しかし、この均衡は、貨幣が流動性というその特性をあらわにすることで崩れさることになる。貨幣経済の中で、貨幣とそれによって購買される他の商品との間のバランスが揺らぐとき、経済には二つの危機が生じることになる。

 第一の危機は、いうまでもなく、経済全体が突如として需要不足の状況になるときに訪れる。この場合に起こる危機が、マルクスが待望した恐慌であり、われわれの言葉でいえば、「持続的な物価の下落と所得の停滞」というデフレ経済そのものである。岩井は、現実の恐慌がどのようにして生じ得るかを、クヌート・ヴィクセルのいう「不均衡累積過程」によって説明する。すべての商品の市場が同時に需要不足に陥れば、価格の切り下げはすべての商品に同時に起こり、その結果、価値形態としての商品の相対的な関係はいっさい変わらないまま物価は下落し、需要不足の状態も依然と変わらないままに残されることになる。このような物価の下落は、ひとつの商品の需要が縮小することでその価格が低下するという「相対価格の変化」の場合とはまったく異なるものである。そして、この過程は、その翌期においても同じように生じる。このようにして、「みえざる手」の含意とは異なり、経済は累積的に不均衡の方向へと押し流されることになる。
 このようにして生じた不均衡は、ケインズのいう「乗数過程」を経ることで、経済全体に広範囲に生産と雇用の圧縮を生じさせる。しかし、この第一の危機は、資本主義に対する本質的な危機とはいえない。現実の経済は、例えば、1929年の世界大恐慌においても破壊的な事態に陥ることはなかったことに岩井は注目している。そして、経済を破壊的な事態へと陥れることなくそれを安定させてきたものこそ、価格や賃金の粘着性であるという。このように、新古典派経済学や近年のニューケインジアン・エコノミクスにおいて、まさに非自発的な失業が生じる原因とされている価格や賃金の粘着性は、逆説的なことに、ここでは不均衡の累積過程に対する歯止めの役割を果たすことになる。

 一方、第二の危機、つまりハイパー・インフレーションこそ、岩井が注目する資本主義にとっての本質的な危機である。先に述べたように、貨幣の価値にはそもそも根拠はない。ある日、突如として貨幣が貨幣であることをやめてしまえば、無限の循環論法の上に成立している価値形態は「巨大な商品の集まり」となり、資本主義社会は解体することになる。歴史的に生じたハイパー・インフレーションは、一国内の経済に限定されたものであった。しかし、経済がボーダーレス化する中で、「世界貨幣」たる基軸通貨にハイパー・インフレーションが生じれば、資本主義を支える価値のアンカーはどこにも存在しないことになる。

「貨幣デフレ」と「財政破綻

 現在の不換紙幣は、確かに、その素材そのものに価値はない。とはいえ、その紙幣は中央銀行の負債として計上されている。そして、一方の資産の側には国債がある。つまり、不換紙幣は国債によって裏付けられているのである。ある日、突如として貨幣が貨幣であることをやめてしまい、市場での交換において誰も紙幣を受け取ってはくれないという出来事、つまり岩井のいうハイパー・インフレーションは、国債価格の暴落(金利の高騰)と同じである。つまり、ハイパー・インフレーションとは、図らずも、国家の「財政破綻」という出来事を定義することになる。国家の徴税権を前提とすれば、経済の規模(名目GDP)が十分に大きく、あるいは、経済全体としてみた国内貯蓄が国債残高を上回っていれば、その国債はいずれ償還される。しかし、国家の徴税権が信頼されていない場合や、経済の規模とは乖離した巨額な国債残高が存在する場合には、ハイパー・インフレーション、つまり「財政破綻」という事態は現実のものとなろう。
 日本の財政・金融政策に関する議論では、財務省は財政規律の堅持を重視するとともに、日本銀行は金融の引き締めを志向することが指摘されている。これは、「財政破綻」という国家の危機に対する彼らの本能的な反応であるとみなすことかできるように思われる。岩井は、ハイパー・インフレーションが資本主義における本質的な危機であることの理由として、貨幣の価値にはそもそも根拠がなく、それが突如として起こり得ることをあげている。しかし、現実の貨幣が国家に内在的なものとして存在していることを考えれば、その危機は、国家の経済政策運営しだいによっていかようにも管理することが可能なものであるといえるであろう。

 2008年秋のいわゆる「リーマン・ショック」に端を発するグローバルな金融経済危機において、先進主要国は、財政による巨額の総需要喚起政策を行うとともに、非伝統的な金融政策などによって中央銀行バランスシートを大きく拡大させた。しかし、にもかかわらず、現在までデフレの危機を完全に克服したとはいいきれない状況が続いている。貴金属や資源の価格は高まっており、それらに対する貨幣の相対的な価値は低下しているが、ハイパー・インフレーションによって世界中の生活者がモノを追い求めるような事態には至っていない。
 岩井のいう「ハイパー・インフレーション」とは、名目貨幣供給の伸びが一定のもとで物価が上昇し続けるという非貨幣的なハイパー・インフレーション均衡、つまり「貨幣デフレ」(黒木)と同じものであろう。 しかし、近年の経済危機における上述のような現実をみると、岩井の語るところとは異なり、資本主義にとっての危機とは恐慌、すなわちデフレ(貨幣バブル)の方にあるようにみえる。特に、人口減少が現実のものとなった日本では、需要の停滞によるデフレのリスクはこれからも高いままである。

(以下省略)