ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

”Kansian Economics”の行方

※文章を追加、および若干修正しました。(04/20/10)

 ケインズは、『雇用、利子および貨幣の一般理論』の最終章において、「金利生活者の安楽死」や「投資の社会化」について言及している。

 資本需要に確たる限界があるのは確かだと思われる。限界というのは、資本ストックをその限界効率がきわめて低いある数値に下がるまで増やすのは難しいということではない〔が、その点を超えて増やすことはできない〕という意味である。このことは〔その臨界点で〕資本装備を使用したときの費用がほとんどゼロだということではなく、ただ、それから得られる収穫が、損耗と陳腐化による資本損失の補填分と、危険および技能や判断力の使用に見合う額の経費とを合わせたものを、高々償う程度に過ぎない、ということである。要するに、耐久財から得られるその耐久期間中の総収穫は、耐久期間の短い財の場合と同様、その財の生産に要する労働費用プラス危険費用および特殊技能や管理の費用をちょうど償うものになる、ということにほかならない。
 このような事態はある程度の個人主義があるところではどこでも起こりうるだろう。だがいまや、この事態から帰結するのは金利生活者の安楽死、それゆえ、資本の希少価値を搾り取るために累積された資本家の抑圧的権力の安楽死である。
・・・
国家は消費性向に対して、一部は課税方式により、また一部は利子率を固定化することにより、そして一部は諸方策によって、主導的な影響力を行使しなければならなくなるだろう。さらに、最適な投資率を決定するうえで、銀行政策の利子率に対する影響力はただそれだけでは十分であるとは思われない。それゆえ私は、完全雇用に近い状態を確保するには投資を多少なりとも包括的な形で社会化するより他に途はないと考えている。

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

 経済が流動性の罠に陥ると、名目金利が低下しても投資は増加せず、人々の貨幣を保有したいという希望が強まることで、金融政策によって貨幣供給を増やしてもそのおおくは生活者の間に退蔵されることになる。消費は停滞し、物価は下落し、賃金の調整メカニズムが必ずしも伸縮的ではないことから失業者は増加する。こうして、「人々が月を欲する」ことが失業者を増加させることになるのである。
 現代の日本のように、このような時代がながく続くと、ケインズがいうように「金利生活者」は安楽死せざるを得ないという見方も説得力を持つようになる。経済が成熟化すると、国内に投資機会を求めることは難しくなる。また、人口減少社会は、将来の需要が縮小するという期待を経済主体に与えることで、資本需要を縮小させるであろう。これは、ケインズ人口論の含意である。

 こうした視点から、菅直人財務大臣増税とデフレをめぐる議論を考えてみたい。2010年4月13日の記者会見の中から、その発言を引用する。

・・・今の日本のデフレ状況というのは、先進国の中でもこれだけ長い期間デフレ状況から脱却出来ていない国は私の知る限りは日本だけです。その原因について相当この間色々な専門家や、また私の足元の事務方に検討させました。そういう中でやはりお金の流れが、循環が悪いと。もっと別の言い方をするとお金を持っておくことと、それで物を買うこと、使うことの中で、持っておくことそのものの方が、そうしたいという意欲が強いと。物の少ない時代、例えば昭和20年代、30年代、40年代ぐらいまでは、テレビや洗濯機や自動車、新しい製品が出てくれば、お金さえあれば使いたかったわけですが、2000年に入ってからはお金があれば使いたいというよりは、お金があっても使わないで、お金で持っておきたいという意欲が非常に傾向として強まって、それが今のデフレ状況の背景にあります。そういう時にお金を使わない状況がデフレであり、あるいは経済の成長を妨げているとすれば、お金をもっと循環させて有効なところに使うためにはどうすればいいか。1つは国債で、借金でやるやり方、1つは税によって分担してもらって、それを使ってやるやり方という、いずれかであることは、これはどなたが考えてもそれしかないわけですから、そういうやり方があるのではないかということを申し上げているわけです。

http://www.mof.go.jp/kaiken/my20100413.htm

 この発言では、まず、日本におけるデフレと、その要因としての流動性選好の過剰な高まりを指摘する。昭和20〜40年代とは異なり、現代の日本は経済が成熟化しており、消費は過小となり、累積する貯蓄にみあうだけの投資機会がないために金利が低下しても投資は増加しない。この見方の背景には、まさに、ケインズが『一般理論』を書いたときと同じような時代認識がある。
 つぎにお金を循環させる方法として、公的支出の役割を指摘する。現在、完全失業率の水準は高く、長期失業者の割合も高まっている。社会資本の形成に政府が積極的に支出することで、これらの人々に就業の機会を与えることができる。 これは、単に失業者の生活保障という意味を持つにとどまらず、その職業能力が陳腐化することを避けるという意味をも持っている。失業者が存在するということ自体が、経済の効率性が損なわれていることを意味するのである。
 これらの事業を行うためのファイナンスの手法としては、国債増税という二つの方法がある。発行された国債中央銀行が引き受けるような手法を除けば、国債によるファイナンス増税によるファイナンスも差はないという見方はできる。現代の経済学では期待の役割が重視され、動学的な性格を持っている。国債発行によってファイナンスされた公的支出は、経済主体に将来の増税期待を生じさせるため、異時点間の消費量の配分が行われることで、現時点の需要を高めることにはならないかも知れない(リカード立命題)。ただし、予算制約が大きい低所得層では財政政策の効果は働く。
 一方、増税をより高所得者に偏ったものとし、公的支出が低所得層の所得を高めることになれば、経済的格差は縮小する。収入に占める消費の割合は低所得層においてより大きいため、このような増税と公的支出は、限界消費性向(収入の増加分のうち消費の増加にあてられる額の割合)を高める可能性が高い。その結果、乗数効果がより大きくなることを期待することができる。
 これは、ケインズの指摘する「投資の社会化」、つまり、国家の管理のもとで、投資の長期的な安定を目指すことに相当するものとみることができる。ここでいう公的支出がその目的を果たし得るかどうかは、企業が行う設備投資の予想収益率である「資本の限界効率」を長期的に高めていくことに寄与すると同時に、現時点の失業者の就労化を確実に実現し、その所得を高めることになるかどうかにかかっているといえるだろう。”Kansian Economics”は、日本経済の将来をかけた壮大な実験ともいえるのであり、現時点において、それが確実に成功するものだと断言することはできない。

“Why was Keynes wrong?”

 増税と公的支出によって投資の水準を高めるという政策は、かつてケインズが持っていたような経済に対する長期的展望を前提としている。しかし、はたして、この長期的展望を現代の日本にそのまま当てはめることは正しいのだろうか。まずは、当時の経済がその後どのような経緯をたどったのかを考える必要があるだろう。ケインズが『一般理論』を書いた1930年代における予想とは異なり、名目金利は、その後、長期的に大きく高まった。ケインズはなぜ間違えたのか。ポール・クルーグマンは、その理由を、「成熟した経済が収穫逓減を振り払う能力をケインズが過小評価していた」 ためであると述べている。金利を比較的高いままにとどめたのは、「しつこいインフレ」であり、それは部分的には「拡張的な金融政策と財政政策」によって生じている。

 しつこいインフレのおかげで、『一般理論』は一見すると、インフレ不在だった場合ほどの現代性はなさそうに思われている。が、皮肉なことに、そういうインフレは、よかれ悪しかれ一部はケインズの影響からきているんだ。悪い面でいえば、1970 年代のインフレ上昇は、部分的には拡張的な金融政策と財政政策のせいで起きた。これはケインズの影響を受けた政府が、非現実的な雇用目標を掲げたせいだ(ぼくが特に念頭に置いているのは、イギリスのエドワード・ヒースによる「成長への疾走」と、アメリカのバーンズ=ニクソンの景気拡大だ)。よい面で言えば、イングランド銀行は明示的に、そして連邦準備理事会は暗黙的に、低いけれどプラスの持続的なインフレをすすめるという明確な戦略を持っている。これはまさに、ケインズが診断した罠に陥るのを防ぐためのものだ。

http://cruel.org/krugman/generaltheoryintro.html

 低金利やデフレは、永遠に続くようなものではない。しかし、経済がいったん流動性の罠に陥ると、そこから逃れることは難しい。「拡張的な金融政策と財政政策」がもたらすインフレは、マクロ経済運営を行う実務者にとっての悩みの種であるが、同時にそれは、経済が「罠」に陥ることを防ぎ、金利のコントロールによるマクロ経済政策運営を可能にすることにもなる。

 そもそも、投資機会が少なくなることの「裏面」には、過剰貯蓄がある。しかし、名目所得に占める消費の割合が高くなれば、貯蓄率は低下するため、投資機会が縮小しても金利は上昇する。日本の貯蓄率は、バブル期にやや上昇したものの、1991年を境としてその後は急速に低下している。*1

この長期的な貯蓄率の低下は、単純なライフサイクル・モデルによって解釈することができる。人口に占める高齢者の割合が上昇すると、これまでの貯蓄(年金を含む)を取り崩す生活者が増加する。よって、日本の貯蓄率は、長期的には低下しているのが自然である。*2また、政府の国債残高の名目GDPに占める割合はしだいに高まっている。長期で考えれば、金利はいずれ上昇するであろうし、中央銀行国債の買い入れを増やし貨幣供給を増やすことになるため、物価も上昇する(為替相場は円安になる)であろう。つまり、ケインズの長期的な展望は、現代の日本にもあてはまるものとはいえない。

 問題は、金利の上昇がどのような段階で、どの程度のインパクトをもって生じるかである。もし、「資本の限界効率」が抑制されたまま金利の上昇が生じれば、投資の機会はますます損なわれ、失業者はさらに増加することになる。将来において必然的に生じると考えられるこの問題が危機的なものかどうかは、名目GDPの規模を今後どの程度高め得るかにかかっている。名目GDPを高めることは、実需の増加とともに将来の物価上昇期待にも依存する。
 金利の急騰に対する事後的な対応によって物価上昇期待が大きくなることは最悪であろう。それに先んじて動かねばならない。中央銀行国債保有を増やし、翌期の物価を高めることで今期の実需の増加を促すとともに、生活者の所得を高めるような政策を行う。そして、企業が、「名目賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率の範囲内とする」という生産性基準原理を超えて平均的な賃金の増加に応じること(具体的には、低所得者の賃金を改善すること)になれば、物価上昇期待を高め、名目GDPをより高い水準に持って行くことが可能になるだろう。その結果、企業の投資意欲が高まり、銀行を通じた外部資金の調達が拡大することになれば、貨幣乗数を高めデフレ脱却につながることにもなるだろう。
 経済を貨幣に従属させることは最悪の結果を招く。経済の動きに先んじることで、将来の危機を未然に防ぐ必要があるのではないだろうか。

*1:金融のグローバル化にともなう実質金利の国際的な収斂ということも、あわせて考える必要があるかも知れない。

*2:この点は実際にはそう簡単に解釈できるものではなく、より詰めた検討が必要。