ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

デフレ脱却に向けた対応

※文章を適正化しました。(05/27/10)

 前回に引き続き、デフレについて、日米のデータを比較しながら分析します。なお、「デフレ」の定義については、「物価下落が2年以上継続している状態」をさすのが一般的ですが、ここでは、より広範に「持続的な物価の下落と所得の停滞」をさすものとします。

 日本経済は、このところ景気は着実に持ち直しつつありますが、長期にわたるデフレからの回復にはほど遠い状況です。2002年〜2007年秋までの景気拡張過程では、内需デフレーターでみたインフレ率がゼロ近傍まで回復しましたが、その後、貨幣供給は引き締められ、結果的には、デフレ脱却はかないませんでした。
 結論からみれば、金融の引き締めが早すぎたことになります。ちなみに、日本銀行は、2001年3月に量的緩和政策を導入し、その後、消費者物価指数でみたインフレ率が「安定的にゼロ%以上となるまで」量的緩和政策を継続することを公表することで、将来の短期金利予想を低下させ期間の長い金利にも低下効果を持たせるいわゆる「時間軸政策」を採用しました。実際にグラフでみても、2006年にはインフレ率がゼロ近傍まで回復し、それを踏まえるように、2006年第2四半期から貨幣供給(M3)は低下しています。この貨幣供給の減少は、日銀が金融機関に供給する通貨であるマネタリー・ベースの急激な減少にともなって生じたものです。

 しかし、日本経済は、2007年の秋から停滞局面に入り、その後のリーマン・ショックによって記録的な需要収縮に見舞われることになりました。貨幣供給による内需デフレーターの引き上げ寄与は、2005年頃からその幅を大きく縮小しています(前回エントリーを参照)。これは私見に過ぎませんが、もし、「ゼロ%以上」としていた目標インフレ率を2〜3%としていれば、前回の景気拡張過程においてデフレからの脱却を果たし、リーマン・ショック後の需要の停滞を幾分緩和することもできていたのではないかと考えられます。

 一方、2002年にも貨幣供給の伸びは大きく低下していますが、これは2006年のときのようにマネタリー・ベースの減少によって生じたものではなく、貨幣乗数の低下によって生じています。貨幣供給は、銀行が預金と貸し出しを連鎖的に繰り返す信用創造の過程を経ることでマネタリー・ベースの数倍の大きさとなります。マネタリー・ベースが拡大していても、資金の借り入れ需要がなければ、信用創造が働かず、貨幣供給は停滞することになります。

 ここでは詳しく論じませんが、デフレは、ポール・クルーグマンのいう「流動性の罠」とほぼ同一の事象に相当させて考えることができます。クルーグマンは、当期の消費だけでなく翌期以降の消費にも依存する効用関数にもとづいて行動する家計を前提とした現代的な経済モデルによって、流動性の罠が生じる必然性を説明しています。*1このモデルでは、家計は、効用を最大化するよう消費の異時点間選択を行い、翌期以降の消費は一定となることを仮定します。名目所得は、中央銀行によってあらかじめ与えられます。また、モデルでは債券市場の存在を前提としており、名目金利がプラスである限り、家計は、当期の消費に必要な貨幣の量を超える貨幣を保有しようとはしません。このとき、名目金利は、効用関数が前提とする割引率に一致することになります。
 中央銀行が貨幣の供給を増やすと、家計の名目所得は増加するので、(右下がりのIS曲線のもとで)消費は増加します。しかし、名目金利がゼロに達すると、それ以上の貨幣供給は家計の中で金利ゼロの債券と(想像的に)置きかえられ、名目の消費(物価×実質消費)にはこれ以後何の変化も生じません。新たに供給された貨幣は、経済主体によってすべて退蔵されることになります。

 「流動性の罠」は、ひとつには、貨幣流通速度が大きく低下することにあらわれます。家計が貨幣を退蔵すれば、市中で取引される貨幣量が少なくなるためです。これに加え、マネタリー・ベースの増加が貨幣供給(マネー・ストック)に影響しなくなるため、貨幣乗数は低下します。2002年は、貨幣流通速度が大きく低下したことに加え、マネタリー・ベースを拡大した一方で、貨幣乗数は大きく低下しています。
 ちなみに、貨幣乗数は、

のように表現することができるため、貨幣乗数の伸びは、現金・預金保有比率が変化することによる要因と、準備預金の預金に対する比率が変化することによる要因にわけてみることができます(現金・預金保有比率は、さらに、(A-1)非金融機関の現金・預金保有比率、(A-2)金融機関の現金・預金保有比率にわけられます)。なお、準備預金の預金に対する比率は、通常の経済ではおおむね「法定準備率」に一致していますが、量的緩和政策下では、保有を義務づけられた準備預金額を超える当座預金への需要が喚起されるため、大きく変動することになります。
 まず、日本についてみると、量的緩和政策によって準備預金の預金に対する比率が高まり、貨幣乗数は低下しています。これに加えて、この時期には、現金・預金保有比率が低下したことで、貨幣乗数は低下しています。後者については、「流動性の罠」による貨幣の退蔵が貨幣乗数を引き下げたことの表れとみることができます。この時期、量的緩和政策はマネタリー・ベースを大きく拡大させたにもかかわらず、貨幣乗数の低下には追いつかず、結果的に、貨幣供給の伸びは低下しています。

 その後、日本経済は、2002年以降の長い景気拡張過程を経験することになります。しかし、その間、完全失業率が低下する一方、非正規雇用が増加したことで所得は停滞し、内需の拡大は大きなものではありませんでした。これは別の場で詳しく論じたいところですが、クルーグマンの指摘する「流動性の罠」は、この弱く実感の乏しい景気拡張過程をも極めて適切に説明しています。

 「流動性の罠」は、マネタリー・ベースを拡大させることで貨幣供給を拡大し、これを所得と消費の増加につなげるという効果を限定的なものにします。クルーグマンは、この場合、将来に対するコミットメントが重要になるとし、つぎのように指摘しています。

流動性トラップにはまった国――つまりマネーサプライを増やしても何の影響もないところ――がインフレを実現するにはどうすればいいだろう。これまで見たように、問題は要するに信用の問題だ。もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。実際、もし金融政策を名目金利という点から見るなら、インフレへの信用ある形でのコミットは、純粋なブートストラップ政策に見える。金利は実際には低下しなくていいし、必要なのは、経済が拡大して価格が上がり始めたときにも金利を上げないという約束だけだ。

http://cruel.org/krugman/krugback.pdf

 現下の日本経済は、デフレをいまだ脱却することができておらず、現在もまだ「流動性の罠」に陥っている可能性が高いと考えられます。量的緩和政策では、いわゆる「時間軸政策」がコミットメントの役割を果たしましたが、ターゲットとなる目標インフレ率が低すぎたことが、結果的には、デフレ脱却を阻んだと考えられます。これらを鑑みると、「このところ高くなっている貨幣供給の伸びを少なくとも維持し、早すぎる「出口」戦略に向かわないよう金融政策の舵取りを行うこと」は、日本経済がデフレを脱却し本格的な正常化を果たす上で、極めて重要なものだと考えられます。
 なお、インフレ率に対する貨幣流通速度の低下寄与は、このところ大きく縮小しています(前回エントリーを参照)。また、上のグラフにあるように、現金・預金保有比率はこのところ高まる傾向にあります。これらは、日本経済がデフレ脱却を果たすという観点から、明るい兆しであると解釈することができるでしょう。

 続いて米国経済です。前回指摘したように、米国は、2009年第二〜第三四半期は、実質的には「デフレ」的な環境にあったと考えられます。一方、貨幣供給の伸びをみると、2009年第三四半期までは一段高い水準を維持しており、これを可能にしたのが、日本の量的緩和政策をはるかにしのぐ大きなマネタリー・ベースの拡大でした。

 一方、貨幣乗数は、この政策によって大きく低下することになります。

 前回、米国経済は「デフレ」的な環境からいち早く脱却し、貨幣供給の伸び幅は大きく縮小しており、米国の金融政策は、前四半期頃を境に、大きく転換した可能性を指摘しました。金融政策の転換は、貨幣乗数の変化にも影響を与えています。ただし、現金・預金保有比率はいまだに低下しています。リーマン・ショック以後、家計は貯蓄を殖やす傾向にあり、この傾向には、その後大きな変化はみられないようです。

(参考エントリー)

*1:なお、このモデルでは、投資や民間企業は存在しない。