備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

ビークルとしての中央銀行

※脚注を追加しました。

 柄谷行人『世界史の構造』への感想の中で、以下のように記述した。

 金本位制の時代とは異なり、現代の世界貨幣である主要通貨は不換紙幣である。それは、その素材そのものに価値はないが、国家の負債としての裏付けを持つものである。中央銀行は、この見方からするとビークル(導管)のようなものとなろう。ただし、それは金利と貨幣量の調整を通じて、経済そのものに影響を及ぼし得るような意志を持つ「ビークル」である。不換紙幣が「金や銀」と置き換わることで、世界経済は貴金属の量によって制約されることはなくなり、一方、一国の経済は国家(中央銀行)の政策によってグリップされることになる。

これは、「貨幣が成立する根拠は、それをまた誰かほかの人が貨幣として引き受けてくれることが期待できるという事実」(岩井克人)であって、貨幣そのものは価値の根拠をもたないという見方を否定するために用いたたとえである。すなわち、中央銀行を、負債として貨幣を発行し、その見合いとしての資産に国債保有するビークル(信託など)とみなし、貨幣が価値をもつことの裏付けとして、その見合いに国債(ひいては、国家の徴税権)があることを指摘したものである。これを貸借対照表によって表せば、下図のようになる。

 ただし、このように価値の裏付けをもつ貨幣であっても、「それをまた誰かほかの人が貨幣として引き受けてくれることが期待できるという事実」がなければ、貨幣たり得ない。貨幣たり得るためには、信用が必要である。これを竹森俊平は『資本主義は嫌いですか それでもマネーは世界を動かす』の中で、メフィストのもつ「魔力」にたとえている。

http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20090928/1254141869

 さて、この枠組みの範囲内でひとつの「リフレ政策」を考えてみたい。*1現在、経済は需要不足に直面しているとする。このため、政府は不足する需要を補うために財政政策を行い、その費用を国債によって調達するとともに、その国債中央銀行が引き受ける。国債引き受けによって、中央銀行はそれに見合う貨幣を政府に供給する。その結果、経済の需要不足は解消され、財・労働市場はタイト化する。このため物価はインフレ基調となる。

 もし、ここで財政政策の費用を増税によってまかなうとすれば、その分、需要は減少することになる。しかもその縮小効果は、財政政策による需要の拡大を待たずに生じるため、一層の不況をまねくおそれがある。*2一方、財政政策をまかなうための国債中央銀行が引き受けることになれば、こうした問題は避けられる。また、インフレ率は経済主体の期待の変化によって左右されるものであり、政策の執行を待たずに、中央銀行国債引き受けが公表された段階で物価はインフレ基調となると考えられる。

清算価値と継続価値

 このような中央銀行と貨幣の見方に対し、また違った観点からの示唆的な指摘が、id:himaginary氏のエントリーの中のNick Roweのコメントの中にみられる。

http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100831/money_and_inflation

 ここでは中央銀行を信託として、貨幣をクローズド型の投信にたとえている。しかし一般的な債券型の投信と違うのは、資産からの収益はすべて政府に渡り、貨幣の保有者はそれを得ることができないという点である。つまり貨幣を、利子を生む「債券」とみなすには無理があるということであり、ここから、貨幣を「株式」とみなす視点が取り入れられる。株式の基礎的価値は、予想利益の割引現在価値である。その際の割引率は、株式の場合は市場利子率が用いられる。貨幣の場合は、株式の場合とは異なり、その発行残高と割引率は無関係ではない。実質貨幣残高とこの割引率を関係づける貨幣需要関数ぬきに、貨幣の基礎的価値を決定することはできない。これらを踏まえた上で、Nick Roweはつぎのように指摘することになる。

貨幣は交換媒体なので、本当に特別な存在である。人々はその保有のためにむしろ代金を支払うのだ。従って、その投資収益率は他の資産に比べ低くなる。

 このような違いは、中央銀行が資産として国債だけを保有する上述のような例の場合にも同様に生じる。id:himaginary氏はこれを、貨幣を簿価としてみる見方と時価としてみる見方の違いと捉えているが、ここでは貨幣を「株式」とみなした上で、清算価値か継続価値かの違いにたとえてみよう。なお、「清算価値」とは、企業がその時点で解散する場合に割り当てられる株式の価値であり、「継続価値」とは、企業を継続企業(ゴーイング・コンサーン)であるとみなした場合の株式の基礎的価値である。精算価値によって評価すれば、貨幣はその時点で保有されている債券のみによって裏付けられるが、継続価値によって評価すれば、当該債券の金額に将来の利子収益の割引現在価値が加わることになる。割引率を国債金利とすれば、継続価値は現に保有する国債の2倍の金額になる。*3すなわち、もし中央銀行公開市場操作によって国債の買い切りオペを実施し貨幣を発行すると、資産は購入した国債の2倍分増加することになり、発行した貨幣はすべて収益となる。なお、この収益は国庫に納付されることになるが、収益が発生した時点では現金化されているわけではないため、政府に対する繰延負債のような取り扱いとなるだろう。

 また、今回の経済危機では、中央銀行不動産担保証券MBS)など価格変動リスクの大きな資産を買い取るようなケースもみられた。この場合、中央銀行の資産は不動産市場の動向に応じて縮小する可能性があり、場合によっては貨幣の裏付けとなる資産が縮小することになる。このとき、貨幣価値が低下することによって実質貨幣残高は減少し、国債不動産担保証券等の価格が上昇することで、資産と負債はリバランスすることになる。

 このような買い取りは、デフレ脱却の観点からも有効である。すなわち、上述したリバランス効果によって、過度に高まっている貨幣価値を低めつつ、株価や不動産価格の安定化を図ることができるのである。

交換媒体としての貨幣

 このように、貨幣を「株式」とみなし、さらに継続価値で考えることで、通貨発行益(シニョリッジ)を中央銀行の利益としてカウントすることや、今回の経済危機においてとられた政策の意味を説明することができる。しかし、上記のNick Roweのコメントではさらに踏み込んで、貨幣の基礎的価値は「貨幣需要関数」ぬきに決定することはできないことを指摘している。「貨幣需要関数」とは、経済主体の流動性選好(あるいは貨幣愛)の問題とも関わる。
 先の例を逆に考えて、株価や不動産価格の上昇によって中央銀行の資産が拡大したとする。このとき、それらの売却によって生じる利益は貨幣を増価させることなく、国庫に納付されることになるだろう。このように考えると、貨幣とは、損失と利益について非対称的な結果をもたらす極めて不利な「金融商品」である。そうであっても、経済主体がその保有を促されるのは、「それをまた誰かほかの人が貨幣として引き受けてくれることが期待できるという事実」があるためということになる。そのことが、貨幣の投資収益率を他の資産に比べ低くしている理由である。

 しかし、もし貨幣の裏付けとなる資産が過度に毀損すれば、そうした事実にはゆらぎが生じ、インフレ率は大きく高まる。その一方で、資産が有するリスクが小さく、貨幣の残高に対して過大にそれを持ち過ぎることになれば、経済主体の貨幣を保有したいという選好が大きく高まり、貨幣愛によるデフレ的状況が生じることになるだろう。
 民間企業の場合は、一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠して、企業の財政状態、経営成績及びキャッシュ・フローの状況をすべての重要な点において適正に表示しているかどうかの信頼性を監査人による監査を通じて確保しているため、不正に利益を捻出することや過度に保守的な負債を計上することはできない。この仕組みによって、株主利益の保全が図られる。中央銀行の場合、資産の額がどの程度ありどのように変動しているのかは、あまり注目されない。*4現下の日本の情勢が上述のような理由によってデフレに陥っているのだとすれば、日本銀行の資産構成が過度に保守的になっていないか等検証することも、デフレ脱却に向けた一つの取り組みといえるのかも知れない。

*1:法令上の制約や、付随する諸経費等を無視する。

*2:ただし、流動性の罠では、貨幣供給の増加分はすべて家計に退蔵される。家計にとって、国債保有することと貨幣を保有することに何ら違いはない。よってこの場合、財政政策をまかなうための国債中央銀行に引き受けさせる場合と、家計に買い取らせる場合の経済にもたらす効果は同じものとなる。さらに、リカード立命題を前提とすると、それを増税によってまかなったとしても同じことになる。

*3:これに関しては、深尾光洋による論説『通貨発行益とは何か』に詳しい説明がある。(http://www.jcer.or.jp/column/fukao/index47.html

*4:デイビッド・ウェッセル『バーナンキは正しかったか? FRBの真相』(275〜276頁)には、バーナンキFRB議長がFRBの資産の額を明かすのを聞いた議員が、その威力の大きさにはじめて気付く場面が出てくる。