ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

武田晴人『仕事と日本人』

仕事と日本人 (ちくま新書)

仕事と日本人 (ちくま新書)

 今村がいうように、労働の喜びは虚構であるとすれば、仕事や地位を得ることの喜びもまた、それに対する社会的な評価に付随するものということになる。労働が有する価値とは、貨幣をよりおおく保有することと同じように、顕示的なものに過ぎないのであって、労働の内容や行為そのものが人間に喜びを与えてくれるわけではない。

 このような労働に対する否定的な見方は、その対極にある余暇の時間こそが人間にとってほんらい的な価値をもつものだとする見方につながる。武田晴人は、近代の労働観というものの本質を労働と余暇の二分法の中にみている。労働とは、賃金を得るためにやむを得ず行わざるを得ないものであり、人間にとっては余暇のように自発的に行動できる時間を増加させることが望ましい。このような二分法は、主流派の経済学をはじめとして、広く受け入れられている観念である。
 一方で日本では、「勤勉」、「勤励」などの言葉は仕事や勉強に精を出してはげむことを意味し、プラスのイメージをもつ。欧州においても、一生懸命に働き、浪費を抑えて貯蓄をし、それを再投資して経営を拡大していくことは、資本主義の精神(ウェーバー)そのものである。しかし武田は、日本の近世の農民には貯蓄という観念は希薄であり、労働の投入それ自体がおおいことが重視されていたことを指摘している。資本主義の精神を代表する働き方は企業家のそれであり、骨折り仕事や肉体労働は観念としてはむしろ奴隷労働に共通するという。近代の労働は分業と協業による労働であり、仕切られた時間と空間の中で、指揮命令系統の中で働くことを余儀なくされる。特に日本の雇用システムは、職務に明確な仕切りがなく、これはときに無限定的な残業を要請されることにもつながるものとなる。
 このようなマイナスのイメージがつきまとう労働について、労働そのものの価値を救い出すためのすべとして、武田は「働くことの復権」を提唱する。これは、労働に対して余暇の時間をおおくすることを意図するものではなく、むしろ、労働と余暇の垣根を取り払うことを意図しており、それによって労働と余暇の二分法という近代の労働観をも超えることを意図することになる。これは、賃金を得るための職業的労働だけに価値をおくのではなく、家事労働、ボランティア活動などにも同等の評価を与え得る仕組みを目指そうというものである。
 武田が目指す近代の労働観の超克は、労働そのものが、その社会的な評価とは異なる本質に内在した喜びをもたらすものであることを要請する。現実の労働においては、賃金の多寡が労働そのものの価値を表現するものとなっている。日本の年功的な賃金制度のもとで、労働者はその微妙な差に敏感となり、働き方や仕事の内容よりも、賃金の支給額が労働に対する評価の基準となる。しかし、人間は知識と経験を仕事の中に注ぎ込み、よりよいものを作り出そうという「制作者本能」(ヴェブレン)をもっている。この本能を営利的な動機付けから救い出すことによって、ほんらいの労働の価値を見出そうとしている。
 しかし、そのような労働は、個々人それぞれにとって異なった使用価値をもつ財・サービスを個々人それぞれが制作するようなものであって、労働の中に報酬とは異なる一律の評価の基準を見出すことができるようなものとはならないであろう。またそれは、市場経済そのものをこれまでとは異なったものとし、分業と協業という特徴をもつ現代の労働そのものを見直すことにもつながるだろう。しかしこうした方向性は、産業的効率を犠牲にし、かつての太古的な労働観に時計の針をもどすことによってしか得られるものではない。
 もし、報酬とは異なった一律の基準というものを労働の中に見出すことができたとしても、それが顕示的な意味をもち、それによって労働そのものの価値付けが行われるという現実が変わることはない。あるいは、そうした顕示的な価値は、報酬がなくとも労働を求める一群の人々を生み出すことで、いわば「やりがいの搾取」とよばれるような現象を生むことにもなる。このような労働の仕方には、ワーカホリックとなって、無報酬の残業を含めての長時間労働をいとわない企業労働者の働き方にも共通する特徴がある。産業的効率の増大は、それによって労働を軽減することなく、顕示的消費を満たすよう生産高の増加へと向かいがちであるが、労働のもつ顕示性は、産業的効率を生産高の増加へと向かわせる誘因ともなるものである。

(以下省略)