備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

アラン・ド・ボトン(安引弘訳)『旅する哲学 大人のための旅行術』


※以前削除したエントリーのサルベージ・データを加筆・修正したものです。

旅する哲学―大人のための旅行術

旅する哲学―大人のための旅行術

 アラン・ド・ボトンは、生活において否応なく接触しなければならない世間の中でのみずからの地位(ステイタス)に対する不安からもたらされる不幸について論じている。人間は世間からの愛を探し求め、その愛の不在に悲しみを覚える。

もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安

もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安


 自分が自分だという感覚、わたしたちのアイデンティティは、自分の暮らしている集団の判断のとりこになっている。集団の人びとがわたしたちのジョークを面白がれば、わたしたちは面白がらせる自分の力に自信を持つようになる。彼らがわたしたちを褒めそやしてくれれば、わたしたちは自分が優秀であるという印象を深める。逆に、わたしたちが部屋に入ったとき彼らが目を逸らしたり、わたしたちが職業を明かしたあとに彼らがうんざりした様子を見せたりしたら、わたしたちは自己不信と無価値な人間だという感覚に落ち込んでしまいかねない。
 人間は、身近なちょっとした事ごとに気を病み、まわりの人々との相対的な比較を通じて不幸になる。特に自分も同じ立場だと感じている相手、自分の行動の評価をするときの準拠集団に対して嫉妬や羨望を感じる。中世のような身分が固定化されていた時代からより平均化されたデモクラシー社会に移り変わることで、人びとはほんのわずかな違いにも不安を感じるようになる。

 ド・ボトンは、仕事の束縛と生存競争の外側にある人生を理解する鍵として旅の効果を指摘している。そこには、自身のバルバドス諸島への旅を含めてさまざまな旅の形態が現れる。
 ジョリス・カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』の主人公であるデ・ゼッサントは、あるときロンドンに旅行したいという強烈な願望に気づく。その衝動によって彼はパリの駅へと向かうが、ロンドン行きの列車を待つ間に突然旅の疲れや不慣れなど不快のとりことなる。結局、彼は自分の住むパリ郊外の別荘へと帰ることになる。彼は二度と外国旅行を企てることなく、旅の期待を味わうための一連の事物で身の回りを囲み、実際の旅の野蛮な現実を避け、想像力の中で「旅」を楽しむ。彼にとって「想像力は、実際の経験の野蛮な現実をはるかに超える、代理体験をもたらすことができる」ものである(その生活の中で彼の神経症は高じることとなり、結局再びパリでの卑俗なつきあいの中に戻ることになるのであるが)。
 ギュスターヴ・フロベールは、フランスのルーアンでの日常生活の中で隣人との卑小な会話の中に恐ろしいほどの退屈を感じる。エキゾティック──真新しく、価値のある──なオリエントへの旅の中で、彼は上品さや気取りのない人間の自然をそのまま受け入れる文化に気付く。「幸福」という言葉は「オリエント」という言葉と交換可能なものとなる。彼は「母国」という観念を憎み、想像力の中で自分の国籍(アイデンティティ)を多様なものに再創造する。
 ワーズワースは、都市が我々の健康にもたらす影響だけでなく、魂に及ぼす影響──社会階層の中に占める自分の地位への不安、他人の成功への羨望、虚栄心など──に関心をもつ。それはつねに新しいものを追い求め続ける欲望である。ワーズワースの詩のおおくは自然の治癒力というものを納得させてくれる。自然の中には望ましい善きものがあり、それは都市生活のゆがんだ衝動を鎮めてくれる。またワーズワースは、この世界がほかの人の目にどのように映るか考えてみるよう我々を誘う。それは「人間のものの見方と自然のものの見方を行き来する」ことである。不幸とはひとつのものの見方しかできないことから生じるのだ。
 遠くを目指すことだけが旅の効果をもたらすわけではない。グザヴィエ・ド・メーストルは「室内旅行」という経験を『我が部屋をめぐる旅』という記録に残す。旅の喜びはその目的地より旅する我々の心の姿勢に依存している。「旅する心の姿勢」の主要な特性は、受容する能力、新しい場所に固定観念をいだくことなく歩み寄り小さな物事に感嘆することなどである。自分の家や近所の風景は退屈なものであって、我々はふつうそこに新しいものをみつける期待をもつことはない。我々は「目をふさがれてしまっている」のである。

彼らが空を見上げない理由は、一度も空を見上げたことがないからだ。自分たちの世界は退屈だと考えてしまう習慣に落ち込んでいて……当然ながら夜空も低い期待の線まで落ち込んでしまったからだ。

 ド・メーストルは、こうした我々の受容性に揺さぶりをかけようとする。「退屈な日々の生活」と旅の目的地である「素晴らしい世界」という二分法を修正し、出発する前にすでに目にしているものに注目してみることを促す。

 このように旅の形態はさまざまである。人は旅の中でこれまでに出会うことがなかったものに出会い、ときには自然の風景など崇高なものへの畏敬の念を抱く。そこで出会うものは無条件に受容し、それに感嘆する。日常の生活の中でのまわりの人々との相対的な比較を超えより広範な位置付けの中に身を置き、これまで考えていた自らのアイデンティティとは異なった違う自分、違う存在になりきることで、不安、不幸、あるいは退屈からの離脱が可能になる。人は旅によって自分自身を相対化し、また自分自身を絶対的なものとみなすような認識のバイアスから解放される契機を得ることができるのかも知れない──