ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

アマルティア・セン(大門毅[監訳]、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力 運命は幻想である』

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

 本書でセンが主張するのは、人間の理性による選択の優位性であり、人間は選択の余地なく唯一のアイデンティティを有しているという「幻想」への批判である。そして、後者に該当する考え方として批判の俎上に載せられるのが、コミュタリアニズムやサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」、文化多元主義などである。例えば、コミュタリアニズムでは、コミュニティにもとづく支配的アイデンティティは「発見」されるものであり、当人には、アイデンティティを選択する権利は備わっていないことになる。これに対して、センは、理性による選択が果たす役割を重視し、一方で、「アジア人であるのと同時に、インド国民でもあり、バングラデシュの祖先をもつベンガル人でもあり、アメリカもしくはイギリスの居住者でもあり、経済学者でもあれば、哲学もかじっているし、物書きで、サンスクリット研究者で、世俗主義と民主主義の熱心な信奉者であり、男であり、フェミニストでもあり、異性愛者だが同性愛者の権利は擁護しており、非宗教的な生活を送っているがヒンドゥーの家系出身で、バラモンではなく、来世は信じていない(質問された場合に備えていえば、「前世」も信じていない)」(セン自身のこと)といったようなアイデンティティの複数性を指摘し、それぞれの集団への帰属は、その時々の状況によって重要度が異なるものだとしている。アイデンティティの複数性と理性による選択は、単一のアイデンティティを押し付けられ、暴力的行為に動員されないために、誰にとっても重要なものとなる。
 理性による自由な選択が「可能である」という見方に対しては、コード化された環境の中で、「選択の自由」は制限されたものでしかないと主張されることがある。しかしセンは、選択に対する制約は「目を見張るような事実」ではなく、買い手は予算制約の中で選択することができる、というような経済学のイロハは、より複雑な政治的、社会的意思決定にもあてはまるとする。同時に、教育の役割について、誰もが下さなければならない新たな決断のため論理的に考える能力を子供が身につける手伝いをすることでもあるという。*1
 ここに、人が欲することを達成する能力である「潜在能力」をいかに高めることができるか、というセンの基本的な立場があらわれている。自由な体制は、人間が潜在能力を高める上で有益であり、潜在能力を高めることができないような体制は、たとえ所得が高くとも「望ましい社会」ではない。例えば、植民地支配下では、被支配者は強い屈辱感や劣等意識を受けることになる。

 経済的な豊かさよりも、潜在能力を高めることが、より社会にとって望ましいものだとするセンの考え方は、同一国内のセイフティ・ネットについて、所得保障よりも就労化(アクティベーション)を重視する最近の考え方にも敷衍して考えることができる。所得保障だけでは人間の「屈辱感」は解消されず、潜在能力を高めることが、結果的には全体としての所得の豊かさにつながり、一方で、所得保障は人間の潜在能力を弱めることにつながるのではないか──

*1:この部分には、議論がやや単純に済まされているような気もする。例えば、人間の能力によっては解決し得ない情報の非対称性によって、選択が不可能となる場合をどう考えるか、など。