備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

池尾和人『現代の金融入門【新版】』

※本文に追記し、注を追加しました。(04/14/12)

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)

 金融取引、銀行システム、企業統治(ガバナンス)の基本から中央銀行による金融政策、金融規制監督まで、幅広く取り扱う入門書であり、現代における金融の機能や役割を理解する上で極めて有用な書といえる。本稿は、本書の内容を紹介するものではなく、著者の日本の市場経済観やマクロ経済観について興味を引く記述があったので、この点をのみ取り上げるものである。

 著者はまず、J・マクミラン『市場を創る バザールからネット取引まで』の整理にしたがい、市場機構がほんらいの力を発揮するためには、

1.情報が円滑に流れること
2.財産権が保護されていること
3.人々が約束を守ると信頼して差し支えないこと
4.第三者に対する副次的影響が抑えられていること
5.競争が促進されていること

という条件が満たされている必要があることを指摘し、日本については、「マクミランのいう五条件を満たした質の高い市場の成立を可能とするような市場インフラがまだまだ全般に十分に形成されているとはいい難い」という。その後、日本における「市場(原理)主義批判」に対する批判が展開されるが、日本において「市場の質」が低いと考える具体的な理由についての記述はみられなかった。

 つぎに、著者のマクロ経済観に係る記述から生じ得る疑問について考えてみたいが、その前に、金融政策の実際に関する著者の見方を取り上げる。

 金融政策についての従来の教科書的説明によれば、金融政策とは、マネーストック、すなわち市場に流通する貨幣量をきめる政策であるされてきた。ただし、中央銀行が動かすことのできる経済変数はハイパワードマネー(マネタリーベース)であり、中央銀行がその供給額をきめると、その貨幣乗数倍のマネーストックが市場に供給されることになる。
 こうした教科書的な説明に対し、著者は、信用創造のメカニズムからすると、時間的に先行するのは銀行貸出であり、銀行が実際にハイパワードマネーを必要とするのは後日になってからである。それゆえ、時間的に先行するハイパワードマネー需要を、中央銀行の金融政策によって動かすことはできない。中央銀行ハイパワードマネー需要に見合うよう、受動的に貨幣を供給しなければ、金融市場の需給均衡は達成されず、大変な混乱がもたらされると指摘する。

 こうした混乱のひとつとして、「根拠なき熱狂」にともなったバブルの発生が指摘される。バブルが問題なのは、著者によれば、それが誤ったシグナルを家計や企業にあたえ、実体経済に「歪み」をあたえることになるためである。1980年代末のバブル景気において生じた「歪み」の事例として、著者は、民間設備投資(対GDP比)の過剰な高まりを上げている。
 一方、近年、メインバンク制を通じた企業経営への牽制機能が弱まっているが、その理由として、日本の大企業の多くが、必要な設備投資等を行うための資金を内部留保でまかなうことが可能になり、外部からの資金借入の必要性が低下したことを上げている。メインバンク制による牽制機能の弱まりは、日本企業の統治メカニズムに一種の空白状態を生み、このことが、日本企業の収益性の低さにつながったとする。このため、現状のソフトな予算制約を解消し、「資本利用に関する資金制約をハードなものに保ち、資本利用の対価(資本コスト)の支払いを求めるという資本市場の機能を強化すること」が今後の課題となる。

 実体経済に関するこうした著者の認識は、実は、一面としてみれば、先日取り上げた小野善康のそれとも近いものがある。旧著『不況のメカニズム ケインズ『一般理論』から新たな「不況動学」へ』において、小野は、家計所得の一定割合が消費に回されるとするケインズの消費関数*1を批判する。

「成熟社会」では、生産と消費の差額である貯蓄に見合うだけの投資が資本市場の調整メカニズムが働くことで全て需要される訳ではないことは当然であって、資本の蓄積が進んだ社会では、資本に対する需要は抑制される運命にある。こうした中で流動性プレミアムが高まり、人々の貨幣需要が大きくなれば、総需要の圧縮がおきる。このため、財政政策は、成熟社会では発展途上社会よりも大きな位置付けをもつものとなるとする。
 一方、拡張的金融政策(ハイパワードマネー供給額の継続的な増加)は、小野によれば、それが消費を拡張することにつながらないがために消極的なものとなる。小野は、デフレによる実質貨幣残高の増加は、拡張的金融政策と同じ効果をもつとする。*2にもかかわらず、これが十分な総需要の拡張につながらなかったことは、いまの貨幣需要の増大に対して、拡張的金融政策が効かないことの証左であるとしている。なお、こうした指摘は、小野が、家計や企業が経済合理的であることに強い信頼感をおいていることを示すものでもある。
 流動性プレミアムが高まり貨幣需要が増大する中で、拡張的金融政策をとることにはどのような問題があるのか。小野は、新著では、国債の信用問題を強調しているが、理論的にコンシステントな、より根本的と考えられる批判は、旧著の172頁でさりげなく指摘されている。

 なお、流動性の便益は現金だけが持っているわけではなく、あらゆる資産がいろいろな程度で持っており、その差は金利や収益率などとして現れる。そのため、株式や債券、土地など他の資産でも、貨幣の一種として購買力を吸い込む可能性がある。これがバブルである。このとき、資金は資産投資家の間を行き来するだけで、生産設備などへの実物投資に回されるわけではないから、物やサービスへの需要は増えずに、資産価格だけが上昇することになる。

すなわち、流動性プレミアムが(不況で)高止まりしている、いいかえれば貨幣バブルが生じているときには、拡張的金融政策を行ったとしても、そのバブルが他の資産のバブルに置き換わるだけで、バブルの総量が減るわけではない、ということである。

 貨幣以外の他の資産バブルには、効用と不効用の両面がある。本稿の筆者としては、経済における雇用の側面を重視する立場から、バブルの効用について積極的に評価している。

 一方、本書の著者である池尾や小野は、バブルの不効用に重きを置く。また、特に前者においては、バブルが家計や企業の期待にあたえる影響について、それが総需要の拡張につながり得ることを評価せず、むしろ、このことをもって実体経済の「歪み」であるとしている。*3しかし、雇用の側面を重視する立場からすれば、構造的失業率を明らかに超えた現在の完全失業率や、非正規雇用者として現れた不完全失業の存在こそが経済の「歪み」であると主張することも可能である。池尾の指摘するバブル期における民間設備投資(対GDP比)の過剰な高まりにしても、より長期でみれば、設備投資の物価水準に連動した停滞傾向のようにみることも可能である。

 物価の水準がジャンプするほど大きな変化が経済に生じれば、実質残高効果が働き、総需要の不足は回復するだろう。しかし、流動性プレミアムが大きく、貨幣需要が極めて高水準にある場合には、小野が指摘するように、物価の下落による実質残高効果は貨幣需要を緩慢にしか低下させず、一方で物価の下落は他の商品に対する貨幣の相対的な価値を高めるため、現在の消費や投資を将来のそれに対して不利なものとする。このため、デフレが続く限り総需要不足は継続し、雇用は圧縮される。民間設備投資(対GDP比)は確かに循環的な変動をともなうものであるが、長期的にみれば、物価の低下に応じてその水準を引き下げつづけているのである。

 いずれにしても、著者のマクロ経済観は、家計や企業が実際にどのように行動するかという経済の実体面が「先行」して物事がきまっていくというものであって、その見方にしたがえば、金融政策は、事後的にそれを追認する役割しかもち得ない。同時に、こうした見方は、現代の金融理論におけるひとつの見識でもある。いま世の中では、日銀政策委員会審議委員の指名が大きな話題となっているが、いわば政治化した議論をみていると、本書のような金融に対する見方はほとんど無視されているように思える。もしそうであれば、いまの議論は、所詮「世間知」に基づいたものに過ぎないといわれても仕方がないであろう。

*1:Ct=a・Yt+et

*2:これと同じ理屈から、クルーグマン(1998)の現在と将来の二期間モデルにおいて、現在の物価が低下すれば、消費が増えて需要不足は解消する。このため、人々が本当に信じてくれるかわらからいインフレ・ターゲットに頼るよりも、現時点の価格破壊を奨励し、実質賃金が低下すれば、景気が回復することになる。すなわち、クルーグマンの議論も、物価の固定性が需要不足をもたらすというニュー・ケインジアン新古典派)の一例であって、実質残高効果を導入すれば、不況均衡は解消される。

*3:一方、この部分についての小野の見解は定かではない。