ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

猪木武徳『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』

 批判にさらされやすい経済学の意義と限界について、経済思想の碩学である著者がその考えるところを述べるとともに、種々のテーマごとに考えるべき視点を提示するという、簡潔にして広範な書である。著者の考えについては、はしがきと序章、終章とあとがきの中で繰り返しつつ述べられ、その間の章は、以下のようなよく話題にされるテーマごとに整理されている。

  • 税と国債
  • 中央銀行の責任
  • インフレーションの不安
  • 不確実性と投資
  • 貧困と失業の罠
  • なぜ所得格差が問題なのか
  • 知識は公共財
  • 消費の外部性
  • 間組織の役割
  • 分配の政義と交換の政義

 ここでは、これらのテーマひとつひとつ取り上げることはせず、序章と終章を中心に振り返ることにする。著者は、本書をまとめるにあたり、明に暗に意識した点が二つあるという。第一に、「人間の合理性、理性だけではなく、人間の感情が持つ力を文明社会の経済制度はどのように取り込んできたのか、あるいは取り込もうとしているのか」という問題である。著者は、経済政策においては、さまざまな価値の中から何を選択するのかというところで、人間的な要求の間の争いが発生することになるが、実は、経済理論も人間学的考察による偏りから自由ではないという。
 この点に関して、著者は、フランク・ナイトのいう「閉じた社会」から「開いた社会」へという自由社会のイメージと、アダム・スミスの「弱い人」と「賢い人」の喩えとの共通性を指摘している。ナイトによれば、「開いた社会」では、自信過剰、利己主義、党派性、独断的姿勢、合意しないといった人間の持つ「反社会性」、社会的紐帯や連携にとって負となる性質が一挙に解き放たれる。一方、スミスは、世間からの賞賛を求め、野心と虚栄心に突き動かされる「弱い人」のエネルギーによって、経済社会は多くの富を創造することができるとする。ナイトは、知性が自由社会の相克を解決する役割を担うとし、代議制のデモクラシーによる立法の過程で知性をどう働かせるかを現代社会の問題であるとみるが、著者はこれを人間の弱さを賢明な力でどうコントロールするかというスミスの指摘と同じ形式の問題だとみている。これに対し、経済学では、原則として、人間性を独立した自由で合理的な個人に、方法論的な便宜のために限定している。
 第二に、「理論と政策の関係をどう見るか」という問題である。ヒュームによれは、理性は情念の奴隷であり、論理を使用する人間は、情念によって判断を誤ることになる。理性による推論で生まれる理論は、自己完結性はあっても、現実をそのまま記述したものとはなり得ない。よって、著者は、理論を単純にそのまま政策に適用しないことは極めて重要だという。またここで、理論の使い方について、現実に起こることは必ずその理論の結論から外れており、そのときに「なぜか」という問いを生む準拠枠として用いることに理論の役割と効用があるとするヒックスの言葉を取り上げている。

 終章では、経済学は学ぶ順序や使い方が重要だと指摘する。複雑な経済現象を解きほぐすためには、正確な事実の把握と、論理的に考える力が必要であり、その際に必要となるのが順序だった仕事ぶりだという。ただし、論理的に考えるだけでは、単に骨や柱だけの構造物を造るようなものである。経済学の理論は、この部分に相当するものであるが、さらに、人間として気持ちよく住める建物を造るためには、経済政策が必要になる。
 この世の多くの問題が純粋に経済的なものではないとすれば、経済学者による専門的な判断だけでなく、健全な価値観と判断能力を持つ生活者の知恵も必要である。価値観の相克がある中では、民主的な手続によって合意の道を探ることが必要である。こうした問題の例として、著者は、TPPをめぐる議論と、ユーロ危機を取り上げる。これらの問題では、経済的な論理と、政治的な価値とが相反するものとなる。

 なお、政治的な価値をめぐる相克に関しては、第10章(分配の政義と交換の政義)、第11章(経済的厚生と幸福)も関係しており、これらの議論を通じて、終章へと流れる構成となっている。特に、先ほど述べた人間の弱さをコントロールする賢明な力というものを、(それ自体があいまいな概念である)社会的政義に関する議論の中にいかに見出すことができるかというのは、難しい問題である。
 また、第11章には、スミスからシェリングにつながる自己統制に関する話が取り上げられる。「自己」というものが確定した単体であれば、感知する効用を明確に定義し、何らかの仮定の下でそれを測定することは可能であるが、時間を隔てて、主体が別の自己に支配されるようになれば、効用概念は不確かになる。(昨日の私と今日の私の嗜好は異なっており、主体としての一貫性を保持することができないような状況における選択をどう考えるか、といった問題である。実際、人間の選択は、一時的な情念の高まりによって変わってしまうことがある。)この問題は、スミスの取り上げた自己統制の問題でもあり、ある程度の自己統制が働かなければ、人間は単体としての一貫性を保てなくなる。

 本書の内容からいったん離れてこの問題を敷衍させると、民主的な手続きを経た政治的な判断の一貫性をどう保てるか、といった問題にも関係するであろうし、政治的判断を行う場合の知性や論理の役割にも関係する。あるいは、人間個人の一貫性の問題を留保するとしても、政治的判断は、多数者の利害によって〈公正な〉判断から放れることもある(いわゆる「シルバーデモクラシー」の問題など)。人間が個人としての一貫性を保つことができなかったり、政治的判断が利害によって歪められているとみなされるとき、知性や論理によってその判断に統制を加えることは、果たして正当化できるのだろうか──
 いずれにしても、先に述べた「経済的な論理と、政治的な価値とが相反する」場合の正しい判断はいかにして可能になるのか、という問題に回答を与えることは困難に思われるが、著者は最後に、まず「経済学の論理を知ること」、「経済学の論理の力と限界を知ること」、そして「経済の論理だけを言いつのらない品性が求められる」とし、「経済学が力を発揮できるのは、その論理を用いて説得が可能な価値選択以前の段階までであり、それ以降は政治的な判断に任すよりほかない」と指摘している。