今年の10冊
毎年ものですので、今年もこのエントリーを書いてみたいと思います。
木地雅映子『氷の海のガレオン/オルタ』
人にはそれぞれ特長があり、異なる個性がある。完全に解り合う術はない。それなのに、なぜ周囲と同じ話題に同化し、当たり前のように学校に通う必要があるのか。幼いときから、救いのないこの世の「余剰」として生きる必要に迫られた少女の話。沢木耕太郎『あなたがいる場所』
『危機の宰相』などノンフィクション作品の印象が強い沢木耕太郎が、このような短編小説集を書いていたことに、率直な意外感。それぞれの小説には、性、年齢、立場などがまったく異なる一人称の語り手が登場し、それぞれが大きな「喪失」を経験し、何かを決断する。以前、著者が、新聞か雑誌で映画に関するコラムを連載していたことがある。その中に、母を亡くし、父は再婚し、自分は施設に預けられることとなった少女が、父とともにその施設に向かう旅路を描いた映画に関するものがあった。それは何という映画だったか、その後何度か探そうとしたが、結局わからなかった。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』
「地動説の世界」に生きる人間にとって当たり前のことは、「天動説の世界」に生きる人間にとっての当たり前ではない。「天動説の世界」から「地動説」を導くことが人類の進歩であり、生きること(勉強すること)の意味である。あるいは、それが正しいかどうかに拘わらず、「天動説の世界」に生きる人々に対し、「地動説」の見方を提示することが、困難を超えるための一歩となる。永井均『〈子ども〉のための哲学』
本書の内容はいつまでも記憶に留めたいが、残念ながら、ここでその内容を整理し評価する力量はなさそうである。ただし、本書の中に以下のような記述があったことだけは、記録に留めておく。青年の哲学に迷い込んだ一時期から脱するとき、ぼくは次のような二つの文体に不信感をもった。まず、ちょっとそのことに触れておこう。
ひとつは「私の考えでは」という文体だ。(中略)
もうひとつは「現代はかくかくの時代である、ゆえに、今やわれわれはしかじかしなければならない」という文体だ。(中略)ぼくはそういう文体を自分にも他人にも拒否することに決めた(他人に拒否するとは、内容のいかんにかかわらず、そういう文体で語る人の言うことには耳を傾けないということである)。