備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

濱中淳子『「超」進学校 開成・灘の卒業生 その教育は仕事に活きるか』

 首都圏の国立・私立中学への受験者数は、リーマン・ショック以降の経済情勢の悪化や少子化から減少傾向にあったが、このところ上昇に転じ、中学受験の人気は復活を遂げている。このため、筑駒、開成、桜蔭等のいわゆる「最難関校」の名前を称した書籍は数多く出版され、ネットのみならずテレビのワイドショーなどでも頻繁に取り上げられており、これらを見るにつけ、そのブームは肌感覚的にも感じられる。本書も、題名はそうした関連書と変わらないように見受けられるが、内容的には、シンクタンク等の調査報告書で使われるオーソドックスな個票分析が用いられており、エビデンスを提示し、そこに解釈を加えるという形で記述されていく。
 分析に用いられるのは、開成・灘の卒業生に対し、中高・大学時代の状況と就業の状況、中高時代の教育に対する評価などを調べたオリジナル調査のマイクロデータ(回収数は開成558、灘514)で、比較目的で、調査方法は異なるものの一般大卒調査も行い(同1153)、それぞれの分析結果が比較される。調査は、中高時代の教育や経験が、その後の人生にどのように活かされているのかを解明する目的で行われたものである。中高の教育は、一般的には、大学(特に東大や医学部)への合格者数で評価されがちであり、その結果が、翌年の中学受験の偏差値表にも如実に反映されるが、一方で、中高の教育がその後の人生に与える影響は、これまであまり注目されていなかったのではないかと思う。そのこともあってか、本書でも指摘されている通り、開成・灘など最難関校の卒業生については、「人間関係が不得手」「世間知らず」「頭でっかち」「融通が利かない」「打たれ弱い」といったステレオタイプの評価が独り歩きしがちである。こうした一般的なイメージを打ち破る上で、本書のようなエビデンスにもとづく分析結果は極めて説得力のある材料となるものである。

 さて、第1章では、開成・灘卒業生の就業意識と平均年収について分析しており、上述のような一般的なイメージとは異なり、開成・灘卒業生は高い就業意識を持ち、周囲からも高く評価されていることについて確認する。上述のようなイメージが必ずしも当てはまらないことは、実際に周囲に卒業生がいる場合や、学校に関する情報に接する機会がある場合、ある程度既に理解できていることであろうが、そうではない場合もあるだろうし、分析の前提として、こうした事実を押さえておく意味はあるだろう。
 個人的には、調査対象者の意識についての設問の分析が中心となるその後の章よりも、第1章の平均年収についての分析が最も興味深かった。開成・灘卒業生の職業構成をみると、やはりというべきか医師の割合が一般大卒よりも高くなる。そうであることは想定内であったが、職業別にみても平均年収は総じて高く、大学研究者や公務員でもその年収は一千万を超える(調査対象者の平均年齢は46.9歳)。こうした事実には、個人的に〈ああ、いまの相場観はこういうものなのね〉と感じされるものがあった。また、平均年収の分散についても職業別に分析されているが、その結果には職業ごとの特徴がよく表れている。
 さらに年収については、いわゆる賃金カーブ的な回帰式による分析で、年齢よりも役職がプラスに働いている*1 。特に、開成・灘卒業生では、年齢は説明変数として有意ではない。
 また、開成・灘卒業生に関していえば、転職経験、特に1度目の転職が年収のアップに関係している。本書では、ベッカーの人的資本論の枠組みに即し、転職は企業特殊的スキルの喪失を意味するため年収は下がるのが通常のロジックであるとし、実際、一般大卒調査ではそのような結果となっている。一方で、開成・灘卒業生に関しては、人脈や転職を活かし、役職を上げることによって年収が上昇するというところが特徴的である。

 第2章以降は、本人の意識に関する設問を用いた分析が中心であり、特に、自分自身の評価についての設問が多用されている。分析自体は、第1章と同様きわめてオーソドックスな手法が用いられており、一般的な調査結果報告書と同程度の信頼性があるといえる。逆にいえば、一般的な調査結果報告書がそうであるように、今後異なる調査を用いた分析で、異なる解釈が出てくる可能性も否定はできない。とはいえ、第2章がそうであるように、理論的な枠組みはしっかりと押さえられたものとなっている。第2章については、「リーダー」という概念について分析上どうとらえるべきか、近年のリーダーシップ論の考え方が十分踏まえられており、先行研究のサーベイとしてみるだけでも興味深い内容である。

 本人の意識にもとづく結果であるとはいえ、開成・灘卒業生が概ね中高の教育や経験を高く評価し、その結果が、大学進学実績だけではなくその後の社会人生活にも十分に活かされていることが実証できたことは、本書に十分な意義を与えている。ただし、中高教育の実績というより、あくまでもともと能力の高い子どもが入学してきただけのことなのではないのか、との批判もできなくはない。この点について、中高の教育効果を別の視点からとらえた論文がある。

近藤絢子『私立中高一貫校の入学時学力と大学進学実績―サンデーショックを用いた分析』

この論文は、名門進学校の高い合格実績のうち、どの程度が生徒の入学前の学力の差によるものなのかを検証したもので、中学入学時の偏差値は大学合格実績に有意な説明力を持たず、間接的に、中学入学後の学校によるインプットの貢献が相対的に大きいことが示唆される、としている。本書とは異なり、学校別のデータを用いており目的も異なるが、いずれもいわゆる「最難関校」の教育効果を立証している。

 大学合格実績については、近年、学習塾の効果も大きいことが指摘されており、それ自体否定できるものではないが、少なくとも、中学受験は公立小学校の授業だけで対応するのがほぼ不可能であるほど入試レベルと授業内容に大きな隔たりがある一方で、大学入試ではそこまで大きな隔たりはない、というのが、そもそも学習塾の説明会などでいわれていることである。目標とする学校の合格にはそれぞれ一定の学習時間を確保する必要があり、「最難関校」の合格には、より多くの学習時間が必要となるのは当然である。確保すべき学習時間の中で大きなウェイトを占める中高の授業に全く意味がないとしたら、時間的にも大きな無駄である。特に、開成や灘のような活動的な中高にとっては不利である。しかし、開成や灘のような中高が長年、高い大学合格実績を続けていること自体、そこに入学することが「合理的」な選択であることを証明しているといえるだろう。

*1:本書とは関係のない話であるが、世の中「ベア」が話題になるが、個々人の給与については、結局「定昇」の方が重要なのだ。