備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』

本書の概要

 ピケティ『21世紀の資本』には、経済学における「不平等」をめぐる歴史の中で、いかなる意味で新しさ、ないしオリジナリティがあるのか──この本では、資本主義的市場経済における不平等に関する理論の歴史が俯瞰され、それを経ることで(特に、著者のいう「不平等ルネサンス」との違いが明らかになる中で)、読者はそれを知ることができるようになる。
 話は、ルソー『人間不平等起源論』とスミス『国富論』における見解の違いをみることから始まる。ルソーによれば、私的所有権制度の確立と分業の発展が、社会の不平等化の基本的な原因である。スミスはその点に大きな異議を持たないが、それ以上に、それらが生産力ひいては生活水準の上昇につながることを重視する。著者はその中に、「成長か格差是正か」という今日にもつながる論争の原型をみる。(なお、話を先取りすると、ピケティの議論においては、成長率が資本収益率を超えることで格差は抑制される。)
 スミス、マルクスなど古典派経済学の時代、普通の商品のみならず労働、資本、土地までもが市場メカニズムの下に置かれるようになると、不平等を生み出す中心的なメカニズムは資本蓄積、経済成長となる。また、理論の中心は「生産」であり、資本蓄積を行う主体は資本家に限られ、労働者と資本家の格差は開く一方と考える。一方、新古典派経済学では「取引」が中心であり、取引が生産を引き起こすと考える。古典派は「富」の所有が階級の違いを作ると考えるが、新古典派はそれは程度の問題と考え、不連続的な階級の違いを作り出すものとはみなさない。さらに資本の収穫逓減から、長期的には、最適な資本労働比率(資本の限界生産性が主観的割引率に一致する地点)が達成されるとする。このような新古典派の見方は、結果として成長と分配問題への関心を低下させる。
 著者のいう「不平等ルネサンス」──マクロ経済成長論の中での成長と分配問題への関心の復活は、クズネッツの「逆U字曲線」──経済成長の初期には成長とともに分配は不平等化するが、国が豊かになるとその傾向は逆転し、成長とともに分配は平等化するという経験則に対し、90年代以降、それとは異なる事象が目立つようになる中で勃興する。さらに、「不平等ルネサンス」においては、新古典派が⽣産問題と分配問題を分離し⽣産問題に関⼼を集中させる向きを持つのに対し、分配パターンが⽣産と資本蓄積・経済成⻑に影響を与える可能性が主張される。
 クズネッツの「逆U字曲線」が示唆するように、市場経済には平等化の力が備わっているのか、あるいはそこまではいえずとも、市場経済の中で発生する不平等は他の不平等化の力と比較して大したものではないといい得るのか――著者は、この「完全競争市場において、分配は平等化するのかしないのか」の問題について、未だベンチマークがはっきりしていないと指摘する。その上で、ラムゼイモデルと世代重複モデルという比較的一般的なマクロモデルに基づき、資本市場、内生的な技術革新の有無別に、初期における経済的不平等が動的にどのような経緯をたどるかを確認する。その結果、「資本市場が完備なラムゼイモデル」を除き、モデル経済は格差のない状態へと収束することがわかる。これらの結果を踏まえると、分配問題の処方箋としては、市場に介入する財政的再分配よりも資本市場の整備の方に優位性があるとの結論も導き得るが、一方で、国内レベル格差をみる上でより適切といえる世代重複モデルでは、資本市場がない場合には収束が遅れ、最終的な所得・富の水準が低くなる。さらに内生的な技術革新があり、資本市場がない場合は、資本の限界生産性が主観的割引率と一致することがなく、定常状態においても初期の不平等が解消されず持続することもある。
 「不平等ルネサンス」の理論家は、財政的再分配の必要性、特に人的資本の公的供給の必要性を指摘する。それは、これらの理論家が重視しているのは労働所得の格差であり、資本の所有に基づく格差を二次的なものとみなしているためである。人的資本には強い不確実性と外部性があり、完備な市場を構築することが困難であるため、公共的な政策が求められる。こうした「不平等ルネサンス」の立場とピケティの違いは、つぎのようなものである。

  • ピケティは、人的資本の格差よりも物的資本の格差を重視している。
  • 「不平等ルネサンス」は必ずしも「クズネッツ曲線」的な市場観に見直しを迫るものではないが、ピケティの立場は大きな見直しを迫るものであり、所得格差拡大の要因として技術革新よりも政治的な力学を重視している。
  • インフレ下における資産減価、債務者への所得移転は格差を縮小させることから、ピケティは、20世紀におけるインフレーションの拡大を重視している。

 ピケティのいう「r>g」は理論的に必然的な法則ではなく、経験的にみられる傾向である。「不平等ルネサンス」の理論家がいうように、資本所有の格差が縮小し人的資本の寄与度が高まれば、「r>g」であっても格差が強まるとは限らない。だが、ピケティの実証研究はその可能性に疑問を投げかけるものである。

「資本」の捉え方

 以上ざっとではあるが、本書に沿って、「不平等ルネサンス」に至る経済的不平等をめぐる理論の歴史、そして「不平等ルネサンス」とピケティとの違いを中心にみてきたが、本書のところどころで取り上げられる資本と労働*1をめぐる議論には興味が引かれる。
 ピケティについては、⼈的資本が考慮されないことが主要な批判の⼀つとなっているが、いずれにしても物的資本と⼈的資本の間は必ずしも明確に線が引かれるものではなく、中間的な無形資本も存在し得る。例えば、企業の研究開発投資はそういったものであり、今後はそれが資本として計測されることになる*2。⼀⽅、⼈的資本投資は費⽤計上され、法⼈企業や家計の資本として計測されることはない。逆の⽴場からは、法⼈企業の教育訓練投資や家計の教育費負担も⼈的資本として計測すべきとの議論が成り⽴ち得る。ピケティの議論では、⼈的資本は物的資本に付随して価値をなすものとされるが、計測され得る資本の中にも企業の研究開発投資のように同様の性格を持つものがある。そうした中で、経済的不平等を語る上で適切な「資本」とは何か、それはどのように計測し得るのかという点は、引き続き、オープンな議論のように思える。
 加えて、本書を読みつつ考えた点をいくつか指摘すると、近年の⽇本では、法⼈企業の内部留保が増加し貯蓄が増えている。いいかえれば、法⼈企業の資本の保有が⾼まる⼀⽅、⻑期的にみれば、⾦融市場における借り⼿としての性格は明らかに弱まっている。その⼀⽅で、家計の貯蓄率は低下傾向である。こうした動きは、インフレの経済的格差に与える影響にも変化をもたらす可能性がある。
 しかしこれらはいずれもフローの計測に基づく議論である。⼀⽅、ピケティが重視する資本の格差は、むしろストック⾯の格差を意味している。⽇本においては、ストック統計を利⽤した議論をあまり⾒かけることがなく、その背景には、資産調査を実施することの難しさがある。ピケティは税務統計を活⽤し実証的な分析を⾏っており、⽇本においても、ストック⾯の分析という観点から、税務統計を活⽤できる可能性がある。

*1:マルクス経済学や日本の社会政策論の中での労働に関する理論の歴史についての記述は、本書の中でもかなり重要な位置を占めているが、本稿では省略している(人的資本についても同様)。

*2:http://www.nikkei.com/article/DGXLZO91976040Q5A920C1NN1000/