ラスカルの備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

濱口桂一郎『働く女子の運命』

若年、中高年、女性という区分けは、日本の労働政策の中では比較的馴染みのあるもので、それぞれに応じた雇用・労働対策が講じられる。このうち近年の女性に関するものをみると、その主要な一部をなすパート労働対策が非正規雇用問題としてどちらかといえば若年の枠で捉えられがちとなり、一方、男女雇用機会均等の精神はすでに社会化されつつあるようにもみえる。そうした中、世界的にみて大きい社会進出における男女格差など、法制度面を超え社会の実相面からその活躍を促進することが課題となってきた*1

著者はこれまでの新書で、若年、中高年の雇用・労働問題を日本の雇用システムの枠組みから論じ、「ジョブ型社会」という解決の方向性を提唱してきた。雇用や生活の安定に資するはずの長期雇用慣行や年功賃金制が、失業した中高年労働者にとっては再就職のハードルとなったように、総合職として将来指導的地位を目指す女性労働者が活躍の場を得る上でのハードルとなる。これは、いわゆる統計的差別(アロー、フェルプス)によって説明される問題であるが、小池和男『仕事の経済学』に記述される統計的差別の日本的な解釈は、男女間の差別的な扱いが「日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになる」原因となったとする。

このように前著『日本の雇用と中高年』に引き続き本書でも「知的熟練論」批判が展開されるが、本書の批判はより(本質的というよりはむしろ)「本格的」である。ここでは、本の主題である女性労働政策からは外れることになるが、まずは、この部分について整理してみたい。

「知的熟練論」批判の概要

日本の年功賃金制の源流を、著者は戦時期の国家総動員体制における「皇国勤労観」にみるが、そこには明確な生活給思想が現れている。戦後は1964年のいわゆる「電産型賃金体系」が時代の典型性を形作る賃金制度となっており、こうした生活給思想を理論づけるものとして、著者は(「私自身全然納得しないのですが」と留保しつつ)マルクス経済学の「同一労働力、同一賃金」の考え方を引用する(1949年の宮川實『資本論研究ニ』)。

こうした生活給思想を源流にもつ年功賃金制は批判を受けつつも根強く生き残り、「能力主義」に基づく職能資格制度として1990年代まで一貫して賃金制度の主流の位置を占めてきたといえる。そしてそれを理論づけ、説得力を与えたのが「知的熟練論」である。ただし著者によれば、「知的熟練論」は当初から年功賃金制の世界的優秀性を理論づけるものとして存在していたわけではなく、当初は、「産業資本主義から独占資本主義へ」という宇野派マルクス経済学の「段階論」に立脚していたことを指摘する。

小池氏はこれを労働問題に応用し、産業資本主義段階に対応するのが手工的万能的熟練であり、職種別賃金率であり、クラフトユニオン(職種別組合)であるのに対して、独占資本主義段階に対応するのが「複雑化した青写真を読み、精巧化した機械の構造に通じる『知的熟練』」であり、内部昇進制と先任権制度(シニョリティ・システム)であるというのです。そして、これをもって当時通説であった日本特殊性論を否定する論拠とします。

ただし著者は、欧米の先任権制度は日本の年功制や長期雇用とは全く異なる仕組みであり、「その実証的根拠はきわめて希薄」であるとする。

さらに小池氏は年功的な賃金の上がり方の実質的理由を「能力」に求めるが、大企業と中小企業の賃金カーブを比較しつつ述べるその根拠は乏しく憶測に過ぎないもので、「存在するものは合理的というヘーゲル的な論理」のみであると指摘する*2

日本的雇用慣行の行く先

上記の批判はきわめて興味深く、ここまで執拗に批判を加える意図を考えずにはいられなくさせるものでもある。いうまでもなくその背後には日本的雇用慣行を礼賛することにより、結果的に、正社員の無限定的な働き方をも正当化してしまったこと、またその仕組みによって「疎外」されることを余儀なくされる総合職女性や「悶える職場」(吉田典史)で苦しむ正社員の姿があるのだろう。

とはいえ日本的雇用慣行は「知的熟練論」とイコールではない。「本質的ではなく「本格的」」と先ほど記述したが、「知的熟練論」の出自や根拠がどうあれ、理論的にコンシステントであるという事実が失われるわけではなく、そうであるからこそこれまで人事労務の実務家等の中でも一定の評価を得てきたのではないだろうか。また以前のエントリーでも指摘したように、条件を緩めて考えれば「暗黙の契約」として年功賃金制の合理性を説明することは可能であるし、一国経済を形作る様々な制度の中での「制度的補完性」によって日本的雇用慣行の生命力は強化されてきた、とも指摘し得る。そうした中、本書における「知的熟練論」の取り上げ方は、ややスケープゴートのきらいを感じさせる。「罪」を着せるべきは、むしろそれを無批判的に利用した政策側の人間の方なのではないだろうか。

しかし何れにしても、日本的雇用慣行を礼賛し正当化し続けることは時代にそぐわない。一度成立した制度は容易には変えられず、「疎外」される人達の苦しみも一足飛びに取り除けるものではないが、例えば、まずは「休息時間」を強行法規的に設けることで日本の正社員の無限定的な働き方に歯止めをかける、というのは最初の一歩となり得るだろう。とはいえ日本的雇用慣行は経路依存的にしか変えられず、結果的に、その行き着く先が日本の産業構造や経済成長にマイナスとなる可能性もある。「労働力の再生産」*3を維持するため、年功賃金制に変わる新たな社会保障制度も必要となる。しかしながら、有名な林=プレスコットの論文では、労働時間短縮を1990年代の日本の経済停滞の一因としたが、週40時間労働をはじめとするかつての労働時間法制の改正について、今に至って多くの人が批判的だとも思えない。身も蓋もないまとめ方になってしまうが、これは社会厚生や幸福度といった視点からも考えるべき問題なのかもしれない。

(追記)

著者のブログで取り上げていただきました*4。リプライいただいたことに感謝します。

まず一点、本書(女子の運命)に関わっては、上記の問題意識ですが、先月取り上げていただいた中高年の本での問題意識はむしろ、本来生活給として作られ維持されてきたものを「能力」で説明してしまったために、かえってその本来の「生活」の側面での問題を正面から理論的に提起することができなくなってしまったことの問題点を、私は結構重視しています。どちらが本質的でどちらが本格的というわけではありません。

子ども手当をめぐる議論の迷走も、最近の奨学金債務で破産する云々の話も、「生活給」が面倒見るはずだったものを面倒見られなくなってきているにもかかわらず、それが「生活給」だという議論が(本音では強力に生き残っていながら)建前上は「能力」だということになってしまっていることが最大の背景だと思っています。この点は、前著の最後で述べたとおりです。

小池批判はスケープゴートではないかというのは、いやいやそれは1970年代後半から1990年代前半までの私の言う「企業主義の時代」の労働経済学を全部ひっくるめて小池理論で代表させてしまうというのは最大の賞賛だと思いますよ。他の学者の議論はわざわざ取り上げるに値しないと言っているに等しいのですから。

年功賃金制(あるいは賃金の下方硬直性)を説明し得る他の理論としては、「知的熟練論」のほかにもアザリアデスの「暗黙の契約理論」や、より有名なものとしてはラジアーの「効率賃金仮説」が当時からあったわけであるが、やはり一定の実証性を備えた「知的熟練論」の影響力が大きかったということだろうか。なお、「暗黙の契約理論」「効率賃金仮説」はともに、『仕事の経済学』の中で、日本的雇用慣行を説明する上では不完全なものとされている。

*1:女性の社会進出を促進したいという近年の方向性は、労働政策の範疇というよりむしろ経済規模の拡大という視点から出てきたようにみえる。実際、家事労働によるサービスの産出はSNA上は産出額の対象とならないが、女性の社会進出により結果的に家事サービスの市場化が進めば、その分GDPは増加する。いうまでもなく、それによって社会厚生が高まるわけではない。

*2:実際、大企業と中小企業の賃金水準の違いは、その一部は労働者属性の違いに帰すことができるにしても、資本装備率の違いからくる労働生産性格差がより大きく寄与しているであろう。

*3:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20160813/1471052174 参照。

*4:http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-9f00.html