備忘録

ー 経済概観、読書記録等 ー

デイヴィッド・ハンド(松井信彦訳)『「偶然」の統計学』

 人は「偶然」を恰も「必然」であるかのように感じ、物語を紡ぎ出すことがある。またその「偶然」は、さほど珍しくないにも拘わらず、極めて稀なことのように思えてしまう。本書は、こうした「偶然」の特徴を統計学の知見をもとに、わかりやすく説明する。原題は“The Improbability Principle Why Coincidences, Miracles, and Rare Events Happen Every Day”であり、本文中では「ありえなさの原理」という言葉が使用される。

 最初に、数学者ボレルの発言に因む「ボレルの法則」—確率が十分に低い事象は決して起こらない—が取り上げられる。「十分に低い」というのは、人間的な尺度、地球的な尺度、宇宙的な尺度など、問題に応じ、その問題を考えるにおいて無視し得る、といった意味合いを持つ。個人的印象では、「ボレルの法則」とは、連続確率分布を考えたとき、確率密度関数 q(x)が仮に最大になる点 x=aであっても、その「一点」における確率はゼロになること、


P(a \le x \le a) = \int_a^a q(x)dx = 0 \hspace{10mm} q(a) \neq 0

を表現しているようにも感じられた(測度論とも相性はよい)。

 しかし一方で、世の中は驚くような出来事でありふれている。代表的なものとしては、本書のそこかしこで引用され(その都度disられ)るカール・ユングの『シンクロニシティ』である。この疑問には、筆者が「ありえなさの原理」と呼ぶ「到底起こりそうにない出来事はありふれている」という主張が答えてくれる。

ありえなさの原理

 筆者のいう「ありえなさの原理」とは、つぎの5つの法則である。

  • 不可避の法則

 起こり得るすべての結果を一覧にしたなら、そのうちのどれかが必ず起こる。サイコロを振れば、1〜6のどれかが必ず出る。

 十分に大きな数の機会があれば、どれほどとっぴな物事も起こっておかしくない(「ボレルの法則」も分母次第)。「組合せ」は機会の数を爆発的に増やす(プログラミングで全探索する際の○重ループでTime Limit Exceeded...など)。

  • 選択の法則

 事象が起こった後に選べば、確率はいくらでも高くできる。大災害のあと何かしらの兆候があったと暗に主張すること、ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃を予期していたとする説など(後知恵バイアス)。

  • 確率テコの法則

 正規分布とコーシー分布は、見た目にはあまり違いがないが、nσのようなテール部分(極めて稀な事象)の確率には大きな違いがある。株式市場では、(正規分布を基にすれば)「10万年に一度しか起こらない」ような暴落が頻繁に起こる。

  • 近いは同じの法則

 十分に似ている事象は同じものとみなされる。カール・ユングにとって、患者が彼に甲虫の夢について話しているとき窓辺に甲虫が現れたことは偶然の一致であるが、筆者にとっては、大きな虫が窓を叩く音を耳にするのはありふれた現象である。しかも、その現象は結構うるさく、起こったなら確実に気づく。

 これらの「ありえなさの原理」は、人間が生まれつき持つ「思考の癖」による。これは、行動経済学においても取り上げられる人間の思考のバイアスである。よって、ありきたりの出来事を極めて起こりそうにない出来事のように感じてしまうことになる。

 一方で、極めて起こりそうにない出来事(「ボレルの法則」に従えば決して起こりえない出来事)を目にしたときは、状況の理解に誤りや見落としがあった可能性がある。データが得られたら、競合する説明それぞれについてそのデータが得られる確率を計算し、その確率が最大となる説明を選択することは「尤度の法則」などと呼ばれ、統計的手法の一つの基本原理である*1。十分に起こりそうにないと見えたときは、それを疑う根拠が存在することを持って他の説明を探す、というのが統計的推論の基本となる。

*1:この尤度原理については、現代思想2020年9月号『統計学/データサイエンス』掲載の小島寛之三中信宏対談で取り上げられており、非常に興味深いものとなっている。

小島氏が尤度原理の「わからなさ」を述べるのに対し、三中氏は、尤度原理は「決して正しい結論を導き出すための方法ではない」、「統計学というのはもともと真理の発見といったことを求めていないというか、そもそもあの学問体系では無理」と指摘する。

東浩紀『ゲンロン戦記 「知の観客」を作る』

 2010年に創業された株式会社ゲンロンのこの10年間の歴史を、創業者で2018年末まで代表を務めた哲学者、批評家、東浩紀の視点でから振り返るもの。筆者は(本書の「はじまり」に記載があるが)1993年に柄谷行人浅田彰が共同編集する論壇誌『批評空間』でデビュー*1、1998年にジャック・デリダに関する哲学書存在論的、郵便的』を出版している。自分が持つ筆者「東浩紀」に対する認識も、この時代のそれが中心を占めており、その後『郵便的不安たち』や、当時話題に上がった『動物化するポストモダン』は(かなり遅れて)読んだものの、柄谷・浅田に見出された若手批評家、「否定神学」批判や「超越論的」対象の複数性に関する(概ね同年代の)論者との位置付けから、いまもさほど変化していない。(そのためか、本書の中程で、ゲンロンカフェにて浅田彰の還暦祝いをやった、との話を読んだ時はとても感慨深かった。)
 なお『存在論的、郵便的』の表紙裏に記載されている著者略歴の写真は、本書の表紙の写真とは、まるで別人である。

 本書の位置付けは確かに哲学書でも自伝でもないが、自分としては「2010年代の人文・哲学分野のマーケットとはどのようなものであったのか」というメッセージ性を強く受けた。ゲンロン(というよりも筆者自身)が当初、その「商品」を企画する上で中心に据えたのは、いわゆる「ゼロ年代系」と呼ばれる若手論客とのことで、当時は筆者自身もサブカル批評や情報論でそれに近い世界観を有していたものと思われる*2。しかし結果的にその試みは成功せず、後半では、その試み自体「ホモソーシャル」なコミュニティへの嗜好性として否定的に捉えられることになる。
 自分自身は「ゼロ年代系」の論壇にはこれまであまり関心を持たず、一方で学術書論壇誌の影響力が(ネット上のそれを含め)しだいに縮小する中、オンライン・サロン、あるいはオフラインのコミュニティ、教育事業、動画配信コンテンツ等が、大学、マスメディア等の既存の権威性に依存することなく市中のどこからか現れ、独自のマーケットを形作っていくのがいまの動向ではないかと感じていた。こうした動向は別に人文・哲学系のコンテンツに限られるものではなく、自然科学や社会科学系のコンテンツでも同様にみられるものである*3
 本書の第3章「ひとが集まる場」には、ゲンロンがこうしたマーケットの形成に果たした役割、特に、その試みが各種コンテンツのデフォルト的価格設定にもつながった可能性が述べられている。筆者は、これをイノベーションと捉えており、イノベーションを産む上での「誤配」(自分のメッセージが本来は伝わるべきではない人に間違って伝わってしまうこと、本当は知らないでもよかったことをたまたま知ってしまうこと)の重要性を指摘する。

 ゲンロンはもともと、若手論客が集まる出版社を目指して創業されました。ところがいつのまにか若手論客はいなくなり、出版も暗礁に乗り上げた。
 そんななか、ゲンロンを救ってくれたのが、カフェとスクールというふたつの「誤配」から生まれた事業だったわけです。そのような経験を経て、ぼくは、ゲンロンというのはけっしてぼくの哲学を伝えるための媒体なのではなく、ゲンロンそのものがぼくの哲学の表現だと自覚するようになったのです。[p. 95]

 2010年代、(ゲンロンではなく)むしろ言論を救ったのが、そうした形態の事業だった可能性もある。

観光客の哲学

 上述のように本書は哲学書ではないが、筆者が近年述べるようになった「観光客の哲学」については、ゲンロンの未来とも絡め、最終章で明確に取り上げられる。

 ぼくは『観光客の哲学』で、コミュニティには、「村人」(友)でも「よそもの」(敵)でもない第三のカテゴリの人々が必要で、それが「観光客」なのだと主張しました。ぼくがいま言っているのは、それと同じことです。観光客を集めるためには商売をするしかありません。観光客=観客は、村が質のよい商品を提供するかぎりで、村に関心をもってくれます。それは冷淡な態度にみえるけれど、そのような人々に開かれることでのみ、ひとは「村人」と「よそもの」の世界を分割する単純な思考から抜け出せるのです。貨幣と商品の等価交換こそが、友と敵の分割を壊すのです。[p.253]

 ゲンロンという場が生み出すのは、プロの書き手だけでなく、それに対価を支払う(教養を持った)「観客」で、さもなくばそれを取り囲む層は「信者」と「アンチ」だけになる。課金システムも重要で、SNSのような無料のコミュニティーでは、スケールは大きいものの(あえて「炎上」することでマーケットを広げるような)軽薄な言論に終始する。
 またそれはオンラインサロンが想定するユーザー層とも異なる。筆者は、オンラインサロンに集う人々は、「カリスマ」に(論理的な判断ではなく)感情でつながる人々で、そのビジネスは、「信者」が「アンチ」に変わる前にできるだけ効率的にお金を集めてしまおう、というものだと看破する。

 一方でゲンロンにも(筆者はそれをオンラインサロンと同一視することには否定的だが)友の会組織があり、年会費を支払うことで、『ゲンロン』の配賦、カフェの割引サービスが受けられ、年1回、会員限定のパーティが開かれる。また第5章のアンケート結果などもみる限り、人文・哲学系マーケットの性、年齢、職業等の属性、「求めるもの」等の傾向にはあまり目新しいものはなく、「ホモソーシャル性」の傾向にかつてとの違いはないように感じられた*4。ゲンロンが本格的に「東浩紀」という一人称から離れるのもまだ先であり、果たしてそれが可能かどうかも、いまのところはわからない。加えて「左翼の内ゲバ」のような混乱が数年おきに生じているようにもみえる…
 5年後10年後にゲンロンがどのような姿をみせてくれるのか、付かず離れずの立場から、引き続き眺めていきたいと感じる。

*1:デビュー作は『ソルジェニーツィン試論--確率の手触り』。ソルジェニーツィンの文学をドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』にある大審問官説やカフカの文学と比較しながら、隠された「『根源的』な問い」を露わにし、その回答を「確率」的なもの(「無作為抽出」的なもの、の意か)として捉え直す。このような「根源性」の探究(「否定神学」批判)は当時の社会思想・文芸批評論壇によく見られたもので、同時代性が感じられる。

*2:というよりも「ゼロ世代系」論客のスタイルの原点は概ね「東浩紀」にあるのではないか、と当時は考えていた。いわゆるリーマンショック前の時期ではあったが、就職氷河期など若年雇用の問題はほぼ顕在化していた。個人でウェブサイトを開設しても一定の「顧客」が見込まれた時代であり、人文・哲学系マーケットはいまよりも活況を呈していたように思われる。

*3:こうした動向には、(かつては全くフィージビリティがなかった)クラウドファンディングによる資金到達が現実に可能になったことも加えることができる。

*4:本書では「IT関係」(起業家だけでなく会社員も含まれると思われる)のウェイトの高さが強調されているが、この点は2000年代後半から2010年代前半にかけてのネット経済論壇にも共通していたように思う。現在、情報系学科の人気は極めて高いが、同様の傾向は1990年代前半頃にもみられた。しかしその後、情報系の人気は凋落、「デスマーチ」といった言葉に代表されるように世間にも「IT土方」的イメージが広がった。ゲンロンもネット経済論壇と同様、1990年代以前からのITブームに乗り当該産業に入職した層に対しカタルシス効果をもたらした可能性がある。現在のITブームは、その何度目かの反復であるが、外資ベンチャーが中心を占めるところにかつてとの違いがある。

今年の10冊

恒例のエントリーです。以下、順不同で。

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真の失業率──2020年10月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

※ 真の失業率のグラフは、後方12カ月移動平均から季節調整値に変更

 10月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は3.1%と前月から0.1ポイント上昇したが、真の失業率は3.0%と前月(3.1%)より0.1ポイント低下した*1

 休業者(前年差)の増加幅はほぼ例年ベースとなり、新型コロナウイルスの蔓延に伴い、就業者数は、最終的には前年差で概ね100万人の減少となったとみられる。*2

 所定内給与と消費者物価の相関に関する9月までの結果は以下のようになる。物価は引き続き停滞、賃金は若干上昇した。

(注)本稿推計の季節調整法を、2020年1月分から変更*3した。

*1:4月は、季節調整のための事前調整モデルを推計する際、AICテストの結果レベルシフトが検出されている。

*2:就業者数(季調値)とESPフォーキャスト調査の結果を用いたGDP就業者関数による予測では、2020年第4四半期の前年差は、約163万人の減少(2021年第4四半期まで、さらに約27万人減少)と予測していた。月末1週間の就業時間別にみた当該データは、即位の日を含むゴールデンウィークに重なる昨年4月等、祝日の変化による前年差への影響が大きい。

*3:X-12-ARIMAからX-13-ARIMA-SEATSに変更し、曜日効果、異常値はAICテストにより自動検出(モデルは自動設定)とした。

シン=トゥン・ヤウ、スティーブ・ネイディス(久村典子訳)『宇宙の隠れた形を解き明かした数学者 カラビ予想からポワンカレ予想まで』

 微分幾何学者で数理物理の世界に大きな名を残す数学者シン=トゥン・ヤウの自伝。原題は”The Shape of a Life One mathematician’s search for the universe’s hidden geometry”。全体がヤウの一人称で書かれており、もう一人の著者であるネイディスの役割は、よくわからない。
 客家の出であるという著者の出自から、父を早く亡くし、極貧の中にあっても教育に重きを置く家庭環境に支えられ、20歳でUCバークレーに進学する、といったところから本書の物語は始まる*1。著者の名は、超弦理論のブームもあり、カラビ予想の解決、カラビ=ヤウ多様体の発見といったところからよく知られているように思うが、それだけではなく、多くの分野にわたる実績があり、若手研究者への教育・共同研究でも極めて活動的に仕事をしてきたことがわかる。
 数学の内容に関しては、(素人の読者にも概ね理解できる範囲で)わかりやすく触れられる。ただし、読後感として残るのは、(著者にとって最も重要であろう)数学の話題ではなく、特に中国人研究者との確執や、中国社会や学会に対する批判的視座である。中には、著者の師であり(自身、微分幾何学の「チャーン類」などに名を残す)陳省身や、著者の指導した田剛との確執も現れる。陳との関係については、中国人若手数学者の間にも話が広まり、陳の「自称支持者」たちが著者が行ったと思われる「悪いこと」を陳に電話をし聞き出そうとしたり、中国から派遣された研究者が著者らの講義ノートをまとめることができず、それを棚に上げて著者を批判する報告を本国に送った話などが出てくる。しかし(考えてみれば当然のことであるが)、何らか確執があるにしても、陳と著者、あるいは本国の研究機関と著者の間にはしばしばやりとりがあるわけで、ある種、微笑ましい話でもある。
 田については、中国本国の研究者の報酬が著しく低い中、「中国としては天文学的な12万5千ドルの報酬を与える『百万元の教授職』」に就いたことに批判的で、そのことに触れた雑誌『ニューヨーカー』の記事にあった、田を「ヤウの最も成功した教え子」とする表現をキッパリと否定する。この種の行為を可能にした中国の施策にも批判的で、(最近、日本でも話題になった)「千人計画」に関しては、つぎのように記載する。

(中略)何十億ドルもかけて有名な学者たちをアメリカその他西洋諸国からスカウトして、国内の大学を増強する計画だった。しかし中国がその計画で得たものは多くなかった。訪問して報酬を受け取りながら、多くの時間とエネルギーを中国に捧げない学者が多すぎた。実際、その制度は悪用のし放題だった。同じ年に中国で三つの職を持ち、アメリカにも常勤の職を持っていた研究者がいた。それに比べて、現地の中国人教授の俸給は微々たるものだった[p.388]。

 こうした著者と他の研究者との確執はそこかしこに現れるのだが、それは何にもまして数学の業績に重きを置く一方、人間関係の機微に関わる話題でもさほど意識することなく言葉や文章にしてしまう著者の性格にも依るところがありそうである。例えば、小平邦彦の義理の息子となった研究者について、「そうしなければ偉大な先生に対して無礼だと思ったからだ」と、その友人の「日本人の数学者数人」と話をしたことが、何気もなく書かれている[p.126]。

 中国の学生について、著者は「良い職を得るのに熱心だが数学その者にはそれほど熱意がなさそう」な者をよく見るとし、その理由については、「教材を丸暗記させて生気を吸い取りかねない中国の教育制度の予期せぬ結果ではないか」という。中国の中高生世代は、国際数学オリンピックでは極めて高い実績を長年、上げ続けており、アメリカや欧州、オセアニアの代表の中にも中国系の生徒は多かったりするのだが、著者は、むしろそうした問題を解くことを競わせるのではなく、真の研究を経験できるよう手を差し伸べることに力を尽くそうとする。

traindusoir.hatenablog.jp

 また、著者がUCバークレーに留学後、初めて中国を訪れた際の話として、「親類を重要視しすぎ期待しすぎる中国文化に困惑した」ことが書かれている。子息を米国留学させるため口利きを依頼された話などは、かつての日本の地方などでもあり得る話で、アジアの「古き良き」ウェットな文化という風にも感じられる。

ポワンカレ予想

 このような(数学の本筋を離れた)研究者間の確執に係る話題としては、ポワンカレ予想をめぐるグレゴリー・ペレルマンとの関係は避けて通れないものだろう。例えばマーシャ・ガッセン『完全なる証明』によれば、著者(ヤウ)はペレルマンの証明に致命的欠陥が含まれる可能性があることを指摘し、その一方で、自身が指導する二人の数学者、曹懐東、朱熹平にペレルマンの証明の詳細に関する論文を書かせ、通常の査読のプロセスを省略して専門誌に掲載したとされる。また、二人の数学者は、ポワンカレ予想の証明の詰めは自分たちが行ったのであり、賞金は当然自分たちのものであると主張したとも書かれている。同書では、ペレルマンがクレイ研究所の賞金及びフィールズ賞の授与を拒否し、数学を離れ、孤独に生きることとなった過程の中に、この事実が含まれることを仄めかしている。

 この話が大きくなったきっかけは、雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたシルビア・ナサー(『ビューティフルマインド』の作者)とデビッド・グルーバーの記事であるが、本書には、二人の取材を受けた際の状況についても記載されている。それによると、ナサーと著者との会話は和やかなもので、彼女がひも理論の会議に出席し、何人かの数学者・物理学者に取材できるよう中国行きの手配を手伝いまでしたが、彼女の本心は記事を見るまで知ることがなかった、とのことである。
 また、ペレルマンの業績については、ポワンカレ予想に関わりなくフィールズ賞に値するものである、との評価を示しており、曹・朱論文を自分が査読することとなった理由を述べるとともに、論文中で先行研究について触れずに数ページにわたる引用を行なったことについて一部過失があったとも認めている。しかしながら、ポワンカレ予想に関しては、著者は「異説かもしれないが、私は証明が確定したとは確信していない」と述べる。この点に関しては、(「ニューヨーカー」記事の作者が考えたように)業績の横取りを意図したものではなく、純粋に数学面からの認識に基づく発言であるように感じられる。

 何れにしても、ペレルマンがクレイ研究所の賞金及びフィールズ賞の授与を拒否することとなった理由は、自身の業績が拠って建つ基礎を創り上げたリチャード・ハミルトンの業績への「気兼ね」、あるいは、むしろ自分よりもそれを受け取るべき人間が他にいる、という事実によるものと思われる。そしてその後、彼が世捨て人のように生きることとなり、結果としてその才能を無駄にしてしまったことの最大の責任は、その数学をまともに理解せずスキャンダルを創り上げたナサー、ガッセン他のジャーナリストやマスメディアにある、と強く感じる。このように、ひねもすスキャンダルを作りたがるマスメディアの習性は、現日本のマスメディアの報道姿勢にも相通じるものがある。

*1:こうした記述を読むと、改めて中国は多民族国家であることを認識する。

真の失業率──2020年9月までのデータによる更新

 完全失業率によって雇用情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発生することで完全失業率が低下し、雇用情勢の悪化を過小評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる方法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

※ 真の失業率のグラフは、後方12カ月移動平均から季節調整値に変更

 9月の結果をみると、完全失業率(季節調整値)は3.0%と前月と同水準となったが、真の失業率は3.2%と前月(3.1%)より0.1ポイント上昇した*1

 休業者の動きをみると、9月は休業者(前年比)の増加幅がやや拡大した。*2

 所定内給与と消費者物価の相関に関する8月までの結果は以下のようになる。今回、賃金・物価の減少幅は大きく、ともに下落の方向となる。

(注)本稿推計の季節調整法を、2020年1月分から変更*3した。

*1:4月は、季節調整のための事前調整モデルを推計する際、AICテストの結果レベルシフトが検出されている。

*2:月末1週間の就業時間別にみた当該データは、即位の日を含むゴールデンウィークに重なる昨年4月等、祝日の変化による前年差への影響が大きい。

*3:X-12-ARIMAからX-13-ARIMA-SEATSに変更し、曜日効果、異常値はAICテストにより自動検出(モデルは自動設定)とした。

トーマス・カリアー(小坂恵理訳)『ノーベル賞で読む現代経済学』

 1969年に最初のノーベル経済学賞アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)を受賞したフリッシュ、ティンバーゲンから、2009年に受賞したウィリアムソン、オストロムまで、計64名の受賞者の業績と人物像を、著者なりに整理されたテーマ別にまとめている。原題は"Intellectual Capital: Forty years of the Novel Prize in Economics"。文庫版解説では、2010年から2019年までの計20名の受賞者の業績についても簡単に触れられており、この一冊で、現代経済学の大宗を俯瞰することができる。
 本書の特徴について触れると、類書にみられる時系列的配置ではなく、テーマ別の整理となっている。また著者自身の見解もふんだんに記載されており、文庫版解説に記載されているように、「自由主義者ミクロ経済学者、金融経済学者、新しい古典派のマクロ経済学者、ゲーム理論家、計量経済学者たちに対して、かなり批判的な態度が見られる」一方で、「行動経済学GDPなどの国民経済計算等の発明、経済史、制度の経済学などに対しては、比較的優しめ」の記述となっている。特にシカゴ派の経済学者については厳しく、一方で、ガルブレイス、ロビンソンについては、ノーベル財団はこれらの功績を何らかの形で評価すべきだとする。
 著者自身の考えは、人々にとって重要なトピックや現実的な価値を持つ研究を認めるべき、というもので、一理あると思われる一方、数学者や統計学者を選ぶべきではない、というのはやや行き過ぎではないかとも感じる。(であれば、心理学者のカーネマンについてはどう考えるべきか。)

ハイエクフリードマン

 本書の中では、ともに自由市場主義者に分類されるハイエクフリードマンであるが、この二人のマクロ経済政策に対する見解の違いについてもまた、詳しく記載される。

 そもそもハイエクのほうでも、シカゴ大学経済学部をそれほど高く評価しているわけではなかった。たしかにハイエクフリードマンは多くの見解を共有している。しかし、経済理論に対するフリードマンの大きな貢献、すなわち実証主義マネタリズムのふたつをハイエクは槍玉にあげ、経済のあらゆる現象に関して原因と結果を単純に考えすぎるあまりあやまちが繰り返されていると批判した。それでもお世辞を言うだけの余裕はあって、フリードマンの文章は簡潔でわかりやすいと持ち上げているが(間違いなく皮肉である)、その一方フリードマンの『実証経済学の方法と展開』に対し公式に批評しなかったことを後悔していた。ハイエクにとってこの著作は、「ケインズの『貨幣論』と同程度に危険なもの」に映ったのである。[pp. 48-49]

 リバタリアンの哲学を自由市場への情熱と融合させることは、ハイエクにとってもフリードマンにとっても難しくなかった。どちらも小さな政府を目指すからだ。しかし、リバタリアンの哲学を科学的客観性と結びつける難しい。たとえば、市場調査の結果がリバタリアンとしての価値観と矛盾するときにはどうすればよいか。科学的客観性とリバタリアンの原理のどちらを優先させればよいのか。この根本的な問題に対し、ハイエクフリードマンの回答は異なっていた。恐らくフリードマンよりも哲学者として優秀なハイエクは、経済学で科学的客観性を守ろうとしても時間の無駄だとしてジレンマを解消した。市場は規制されないほうがよいと信じていればそれで十分とし、科学的な正当化が必要だなどと思わないように諭した。経済データに埋め込まれている真実は、経済学者には簡単に発見できないとハイエクは信じていた。経済学賞受賞者としては興味深い発想である。
 しかしフリードマンのほうは、それほど簡単に科学への情熱を放棄しなかった。何しろ彼は、経済学は客観的にも科学的にもなり得る学問であり、政治や個人的偏見に影響されないとする"実証経済学"で有名になった人物である。フリードマンは、科学的研究と政治・思想上の立場とは切り離せると主張した。科学の「帽子」をかぶっているときには、考案した理論をデータにもとづいて客観的にテストすることが可能であり、フリードマンはこれを実証主義と呼んだ。一方、政治の帽子をかぶっているときには、必ずしも科学的とはいえない政治的な見解であっても自由に表現することが許され、これを"規範主義"と呼んだ。科学者フリードマンと政策提言者フリードマンとの間に一貫性がなくてもかまわない。前者は科学を追究し、後者は見解を述べる。クローゼットにふたつの帽子が用意されていれば、客観的な科学者とリバタリアンの間に矛盾は存在しないと言うのが彼の言い分だった。[pp. 63-64]

 ハイエクフリードマンの違いについては、本書の視点とはやや異なる(実証主義よりもマネタリズムの方に関係する)が、稲葉振一郎新自由主義の妖怪 資本主義史論の試み』の中でも指摘されている。同書では、フリードマンが管理通貨制度の支持者でありマクロ金融政策に積極的な立場をとるのに対し、ハイエクはそのような立場をとらず、むしろ金本位制への復帰を志向していたきらいもある、と指摘する。

「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み

「新自由主義」の妖怪――資本主義史論の試み

  • 作者:稲葉 振一郎
  • 発売日: 2018/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

指向と趣向

 過去十数年のノーベル経済学賞の受賞理由には、一定の指向性があるようにもみえる。2007年の受賞理由はメカニズムデザイン論であるが、その後、特に2010年、2012年、2020年辺りに共通し、「市場を創る」視点からの研究が受賞理由となっているように感じる。また、2017年は行動経済学であるが、近年は実際の政策にもその研究成果は取り入れられており、2019年は貧困政策を因果推論により評価するもので、やはり実際の政策に新たな視点を持ち込む研究である。

 なお個人的に今後の動向に関心を持つのは、脳科学とも関連する神経経済学の分野である。また本書で取り上げられた受賞者の中では、シェリングの研究に興味を持つ。さらに「この中で好きな経済学者は誰か」と問われれば、恐らく「アローの不可能性定理」で知られるケネス・アローを上げる。